社会生活の純潔性
宮本百合子

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(例)[#地付き]〔一九四七年五月〕
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 私達が生きてゆく間には、千変万化の波瀾をくぐる。その波瀾の間に、人間として、強く、純潔に生きてゆくことは非常にむずかしい。現代に純潔は非常に少い。
 純潔とはどういうことを意味するのだろう。人間が社会に生きてゆく態度として、純潔性は、その人々が社会に持っている歴史の意味を明瞭に自覚して、歴史が一人一人その人達に求めている道を、積極的に勇気をもって進んでゆく。そういう自然で正直な態度の中に、社会生活の純潔性はあると思う。働く人には勤労階級として歴史から求められている最も名誉のある発展的使命がある。支配階級には、現在の歴史の中で矛盾の多い非生産的な階級でありながら、支配階級としての権力を保っていかれるという、その矛盾をはっきりと見てその矛盾がそれらの人々にもたらす生活変化、階級の没落に対して、正直に勇気ある人間らしい発展性で自分の身を処してゆくこと、それが生活の一つの純潔さの意味である。
 石橋湛山氏が大蔵大臣として、インフレーションの、恐しいこの時期に、ラジオ放送して、幼な児の如くならずんば天国に入るを得ず、というようなことをいったのは純潔と反対のことであった。大臣という立場は、全人民経済生活の具体的解決を責任としている。その責任を忠実に感じ、履行し、責任を負いかねる時には、その任を去るというのが純潔な態度である。この場合に、幼な児の如くならずんば、という聖書の言葉を出して、今日われわれの苦しんでいるインフレーションに対してただ政府を信頼せよというふうないいまわしをすることは、真実たる純潔そのものを侮辱したことである。
 ただ平和、衝突がないということ、そのことだけで純潔は意味されない。悪いことをしないということだけに純潔があるのではない。
 純潔ということには、非常に積極的な、非常に建設的な意味がある。社会は矛盾に満ちていて、私達はいつでも悪くなる動機をもっているし、濁らされる動機を持っている。それに対してはっきり社会の歴史の進む方向とそれにつれて自分の闘いの道を知って自分を立てる道をつかむこと、そのことなしに私達は一日も純潔にいられない。
 純潔というものは、或る特別の条件で固定した一つの
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