型ではない。善とか悪とかいうことは相互の関係で変化して、善かったことが悪くなる時期がある。悪かったものが違った形に発展して善くなる場合もありうる。純潔というものもいわゆる「無垢」なるものだけが純潔なのではなくて、すべての不正とすべての間違いと、すべての汚れの中から、人間が自分の社会認識の力と人間性の油でそれらの汚れを弾きとばしながら生きていく、そこに純潔性があると思う。
純潔ということが、異性の間の肉体的な関係に対してだけいわれるものでないことは、今日だれにでもわかっている。仲間としての友愛、友達としての友情、同志としての結合、そういう社会的な結び合いの中にある純潔さは、男と女の自然な特殊性を十分に主張しながらも、それを貫いてもう一つ互いの間に持たれている共通な目的によって結ばれている。具体的な例でいえば、ここにある一つの組合があって、争議に入っている。青年部と婦人部はもちろん協同で闘っているから、事件の成行きによっては、夜、家へも帰れない。一つの室に、ある人はテーブルの上で、ある人はイスの上で、夜明しをしなければならないこともある。その時一つの室に若い男と女とが夜中かたまり合っていたからどうだ、というふうなことを思う人は、もう今はいない。組合の男女は、古い観念でいえば純潔に一夜を明かしたのである。しかし、もっと突き進んだ理解での人間精神の純潔、階級的純潔とまで立入って考えれば、昔ふうに純潔な一夜を明かした組合の男女のうち、かりにA子とB男という二人の人があるとする。その人達は何にもいわないで、一人一人の胸の中に、その争議から逃げたい、もし糺弾されないならば、自分達だけはこっそり妥協してもいい、もういやだ、と思いながら「純潔」に一夜を明かしていたとする。それは果して働く人として純潔な一夜であろうか。私達の純潔観はこういう所にもある。
むかし社会主義の思想と運動が治安維持法によって極端に弾圧されていた時代、日本共産党が非合法な政党としてひどい目にあわされていた時代、運動に入って困難な闘いを続けている若い男女の同志が世間態は人なみの家庭生活をしなければならないために、夫婦でない者が寄合って暮さなければならない、という場合があった。極端に困難な事情の中で、仕事の便宜上共同生活をした男女がやがて恋愛生活に入り、結婚生活も営んでゆくという例もあった。近頃になって小林多喜二
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