社会と人間の成長
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
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(例)[#地付き]〔一九四七年六月〕
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私は一九二七年から三〇年までソ連におりました。いまから考えれば大変古いことで、ちょうど第一次五ヵ年計画が始まったばかりのところです。ですから、皆様の方が新しい今日のソヴェトについては十分御存じのことでしょう。何を見ました、かにを見ました、というお話は申し上げません。私が深く動かされたこと、そして自分の一生に強く影響をうけたことは、どういうことであったか、ということを簡単にお話申し上げたいと思います。
私たち人間というものは、いつも歴史の中に生きております。社会の中に生きております。宙に浮いた存在ではありません。社会はどんな条件でわれわれに影響して来るものでしょうか。わたしたちは、自分たちの運命をよりよくして行きたいとどこでも何時でも努力しております。自分の運命の主人となる可能性というものは、社会の現実のどんな処にあるか、自分の生きている社会の中で、どういう風に自分たちで作って行けるものか、そういう点について、ソヴェトの社会の歴史は、生きた姿で非常に深い教訓を与えていると思います。過去において与えるばかりでなく、今日においても深い教訓を与えるものと思います。そして明日のためにも……。
最近、戦争が済んでから、ソヴェト領へ捕虜で行っている日本の人がどっさりあります。その方たちのある部分の方は帰って来ました。しかしある方たちはまだ帰って来ません。手紙は来るようになりました。赤十字の印のついた往復葉書で手紙が来るのです。このごろ私たちはまるで知らない人から、そういう葉書を貰いました。日本語で書いてあるわけですが、それを読むとこういうことが書いてある――どういう本を読んでいるということから、自分は思いがけないことからソヴェトの生活をするようになった、そしてここで、これからどの位暮すか知らぬが、自分の大変深く感じることは、日本人の利己心についてである、日本人は利己心が強い民族である、それは何と悲しむべきことで、同時に嫌なことであろうか、ということが往復葉書に書かれて来ました。こういうこころもちに何と答えたら正しい返事になるのでしょう。ソヴェトというと、共産主義者の国だとか、或は赤い国だとか、今日でもなおある種の人たちは、ソヴェト同盟の社会主義民主社会のもとの人民生活について現実的な理解をもとうとしないで、いろいろな妄想を歪んだ誇張でつたえております。このハガキの主はそういうような話をきいたこともあったでしょう。それが捕虜となって、ソヴェトの生活をしてみて、つい先頃まで、戦争の間は、世界で最も善良な、最も名誉ある立派な民族だと教えられていたその日本人が、ソヴェト人の生活ぶりとくらべてみて、日本人はどうして利己心が強いのだろう、と見も知らない私に嘆いて手紙をよこす、その気持はどういうことから変化をして来たのでしょう。それはやはり、その人が実際にその中で暮して見たソヴェトの社会生活そのものから、日本人の利己心について考えはじめたのであろうと思います。私はその葉書の返事に――直接書いたわけではありませんが――人間というものは、日本人が民族性として利己主義であるのではなくて、自分を護って生きるために、まず自己ということを万事につけて先に考えなければならないような社会の仕くみだから、どうしても利己主義になるので、日本民族そのものが、劣等な、利己心の強いものであるというわけではないということ、それは社会の事情によって変化をするということを返事をしたわけです。
私がソヴェトにいた期間、私は全然政治的な関係はもっておりませんでしたし、外交官でも、新聞記者でもありませんでした。ただ一人の小説を書く女として暮しておりましたから、パンもバターも特別な便利で買えるような条件はありませんでしたし、いろいろな食物にも本当に困りました。特権がありませんでした。普通のソヴェト市民よりもっと能力がない、労働組合にも属していないものですから。だから沢山の不便をして過ごしましたけれども、それでもなおソヴェトの生活が私の一生に大きな影響を与えたのは、いまその人がソヴェトへ捕虜になって行って暮してみて、何故日本人というものは利己心がこんなに強いのであろう、という疑問をもちはじめたのと同じモメントが、反対の側から与えられたからだと思うのです。
憲法や民法が改正されたについて、この頃はよく家族の問題が出ます。婦人にとっての家族問題――私、女でございますから大変直接なのですが――結婚の問題、親子の関係は、いろいろ複雑な問題を起します。例えば夏目漱石の小説ですが、その主人公は、インテリゲンチアですが、本当の親でない親をもった青年が、いろいろな苦しみの中にもだえているし、「行人」のように自分を愛するのか愛さないのかわからない、ちっとも積極的な感情表現をしない妻をもったインテリゲンチアの男の苦痛、そういうものを沢山扱っております。ところが、ソヴェトへ参りまして、いろいろ見ているうちに大変驚いたのは、家族というものが日本で考えられているような、とじこめられた屋根の下にうごめいている家族で全然ないということです。もっともっとひろく社会の中に押出されている、一人一人が社会に役だつ勤労者であるということから、社会そのものによって保証された条件をもって集っている集団としての家族です。そのことで非常に驚いたのです。私がロシア語を習っていた或る奥さんが、私のうちへいらっしゃいというので参りましたら、大きな息子さんがある、その大きな息子さんと旦那さんとがお茶を飲んで話をしていると、息子さんはお父さんをお父さんとは呼ばない、そのお父さんを、たとえばミハイロ・ミハイロヴィッチという父称で呼んで、そして話しているのです。不思議に思っていたら、お父さんはそれに気がついて、不思議に思っておられるらしいが、これは私の息子ではない、私の妻の息子です、そういうのです。面白いでしょう、実にはっきりしています。私たちは二度目の結婚ですから、私の結婚するときにはもうこの子供は生れていたのだというのです。前の人は革命前の軍人であって、何か将官だった人だそうです。つまりその人と離婚したとき、女の子供と男の子供がいたので、子供たちをどっちで育てるか協議したわけですが、男の子は僕はお母さんと暮したいといい、女の子は私はお父さんと暮したいといったので、別れた夫の方へ娘が行って、お母さんの方へ息子がついて来たのだと説明してくれました。そういうことは、今まで日本の社会にもございますし、これからもあるでしょうけれども、その場合日本では形式にはめて、お父さんと呼ばせ、お母さんと呼ばせるのです。一緒に別れて行った女の子にとっても、お父さんが二度目の結婚をしていれば二度目のお母さんがあるはずです、けれども、その娘は男の子と同じようにお母さんとは呼ばないで、アンナ・ミハイロヴナならアンナ・ミハイロヴナと呼んでいるのでしょう。つまり、その人たちは親子の関係についてずっと楽で、自然に考えているのです。母親というよびかた、実の親子らしさに無理に追いこまれないんです。お互に若い娘と年とった女の人という関係で一軒の家に住んでいるのです。その父と息子を見ておりますと、冗談をいいあう、大きな犬の仔と小さい犬の仔みたいにふざけている、可愛いいんです。非常に気持が楽なのです。
この光景から、私は漱石の小説を思い出したし、また、沢山の世界の継母、継子のお伽話を思い出したのです。私どもが子供のうちからきいているいろいろなお話の中の継母、継子の話というものは、世界共通のいつもいつも真先に涙を絞らせたテーマです。本当のお母さんがいないために、本当のお母さんが死んだあとに来た人が、自分の娘可愛さに、もとのお母さんが生んだ子供をいじめるという話、皆さんにも御記憶があるでしょう。今日だってそういうテーマのものがあるかも知れません。世界中のお伽話のつくりては、継母と継子、つまり母親を失った子供とあとから来た母親のそういう悲劇を種にしているわけです。私どもの自然な感情は家族の中で無理な形にきめられて、亡くなった母を恋しく思う子供の心に一緒になってやらないで、他人だった人を急に次の日から母親として愛さなければならないという無理な義務を押しつけて、素直な人なつこささえ歪めてしまうのです。ちょうど、それは嫌な結婚の対手についても、婦人の独立がまもられていないから、友達に逢えば年中ぐちをこぼしながら、ちゃんと人格をみとめ合った離婚も出来ないのと同じです。本当よ、それは。私どもの感情というものは型にはめられて、非常に家族の形をやかましくいって、世間態が悪いということを申します。家庭の感情が社会的になっていないのに、生みもしない子供を自分の子供のとおりに可愛がれというところに無理が生じます。家庭の形式をやかましく言いながら、その家庭の中で感情は自然さを失わされるのです。
わたしたちは、自分の家族を本当に安全に守って行くためにはどういうことを現在やっているでしょう。或るかたは、何とかして子供にちゃんとして将来役にたつ教育をさせて行きたいと貯金をされたと思います。金持なら金がありあまっておりましょうから無理じゃないのですが、われわれが貯金をすれば何処かに無理が来ます。食物で無理をしているとか、本を買うことを止めてしまうとか、義理を欠いているとか、人に親切をしなくなってしまっているとか。何処かで人間らしいあったかい人づきあいを欠いて、やっとこさと金を溜めて、どうやら家を建てるより子供の教育だ、立派な子孫を残すために、小さい碌でもない財産を置くより子供の体にかけようと熱心に貯金していたら、それがどうでしょう、このごろは金の値打は百分の一になってしまったのです。人間らしい義理まで欠いて、つまり自分の人間らしさとひきかえにしてまで溜めたような金が大して役に立たない。食物もなくなって、百五十円のお米を毎日毎日三合ずつ子供に炊いて食べさせられやしないでしょう。どんなに善意をもっていたって、私ども一人一人の力では、もう到底家族を安全に守って行かれません。ところが、ソヴェトの家族の場合は、父親が工場へ行ったり勤め人だったら、労働組合に属している、それから息子も勤めているから労働組合に属している、娘も勤めて組合に属している、三人とも組合に属している。その上教育中の息子と娘とは有給の専門教育をうけられます。これらのひとびとは国民健康保険、養老年金、傷害保険、その他一年、二ヵ月の休暇や、いろいろな条件をもっています。お母さんが病気をしたり姙娠した場合は、働いている人の妻であり、勤労者の妻である、組合員の妻であるということで、組合から地区の病院、産院、或は健康相談所でもって癒して貰える、姙娠すればちゃんと四ヵ月手当がついて休暇も貰える、娘が結婚すればそれだけの条件もつき、社会的にそういう保護をされているから、安心して働くことが出来、よく働くことが、とりも直さず社会的な安全と幸福の保障になります。ここに、人民の民主主義社会の意味があります。若し日本の労働組合の力が強くなり、社会の勤労が直接働く人のためのものとなれば、みんなが組合に属して働いている人であるから、社会全体としてそれを保護するということになれば、個人個人が、自分の人間らしさとひきかえに、冷血になったり、利己的になったりしないでやってゆける条件が出来ます。そういう社会なら、すべての人は勤労することが出来、すべての人は教育をうけることが出来るという日本の憲法も、現実のものとなります。ですから、私たちは自分たちの人間らしい心のためにも、今日の社会を出来るだけそういう方向にもって行くことが、非常に大事であると思うのです。
人間の本能という問題について、田辺元さんその他の人々の間には、こういう考えがあります。人間の本能は不変であるから、社会制度が、たとえどんなに理想的に
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