変ったって、人間が人間である以上は変らないというのです。生存競争の慾望、所有慾、そういうものがある以上、社会制度が変っても人間は変らないとおっしゃる。ここのところを、私たちは本当に考えてみたいと思うのです。本当に人間に本能があるからには、どうしようもなくて、変れないものでしょうか。ギリシャ神話の時代から、人類が考えるという最初の努力をしはじめたときから、追求しつづけて来たのは幸福に生きたいということだったと思います。この動機の上に、これだけ人類の歴史は長いながい間を経て、よりよい生活方法の発見に努力をして来たし、発達を遂げて来ております。人間のより快よく生きようという努力は、じつに驚歎に価します。このように生きる本能、自分らの生活を幸福にして行きたいという本能はたしかに強烈です。
けれども、それならば、そういうつよい、幸福に生きたいと思う本能が、どういう形で、私たちの生活にあらわれて来るでしょう。幸福に生きたいという本能が原始的にあらわれて、私は私の気に入った着物を皆さんから剥いで来るでしょうか。決してそうじゃないのです。現代の私たちは、少くとも個人の幸福の安定はただその人々だけの問題ではなくて、より多くの社会的条件でもって支えられなければ成りたたないというところまでは経験ずみなのです。ですから、自分が金を持たなければ不安心であるという、ブルジョア的な、古い個人主義的な考え方では、幸福なんかどうにも支え切れなくなって来ているのです。日本のいまのような社会事情では、金にしても十分の一、百分の一、千分の一と価値が減って来るでしょう。そういうときに、幸福は金銭の量によると金ばかり溜めて行く人は、果してそれで目的が達せられましょうか。どんどん価値が減って行くのを目の前に見ている。私ども働いて得た金によって生活しているものはちがいますが、金を積んで見ている人にとっては、ずるずる金の価値が下って行くことは決して幸福じゃないのです。その人はどういう風になるかといえば、どしどし金の値打が下るから、ますます人には頼れない、ますますたよりになるのは自分だけと、一層エゴイスティックな気持の中にちぢこまる、と同時に、金の方はいつかマイナスになってしまって、のこるのは不具にこりかたまった守銭奴的人間性だけということになります。
生存本能、その慾望は変化してあらわれます。音楽でいえば、人間が幸福に生きたいという本能は一つの主題です。この主題は現実の社会のいろいろな条件と絡み合って変化してあらわれております。幸福の内容も、現代では非常に豊富ですから幸福になってゆく道も単純でありません。人間はまず腹一杯食べたいというなら、それはどう食べるかということを考えるところまで、現代の歴史は進んで来ています。人のものを掻払って食べるか、身を売って食うか、人をだまして食べるか。或は人間には全くそういう風でない、人間には生きる権利があるということを、社会的に具体化して、それで全人民が食べられるような社会の仕くみにしてゆこうと考えるか。何でもいい、自分さえたべられればいい、それでは、犬や猫に劣ります。犬や猫には、社会的感覚の自覚がないんですから。
所有慾が、人間の動かし難い本能と考える人もあるけれども、それでさえ、生きてゆく社会の事情で変るんです。現実に変るんです。何故所有慾がつよいかといえば、自分がそれを持っていなければそれを使うことが出来ないからです。風呂桶一つについての私たちの感情でもよくわかります、昔の人たちは自分の家に風呂桶ぐらい一つもっていなくては生活でないと思った。今日わたしたちは、自分の家に風呂桶がなければならないとは思っていないと思います。それより、こんなにわるい銭湯の状態が、もっともっとよくなることを切望しています。自分のものでなくても、自分はじめみんなが衛生的に気もちよくつかえる銭湯をもちたいと、どんな方でもおっしゃると思います。ある区会議員の選挙演説では、当区内の浴場をぜひよく致しますといわれました。こういう選挙演説がアッピールするのは、みんなの要求がそこにあるということの明瞭なしるしです。風呂について、わたしたちの感情は所有慾から利用の慾望に発展して来ているのです。この講堂を、ここに来ていられる方の誰が所有したいと思っているでしょう。いい病院がほしいということ、いい図書館がほしい、いい託児所がほしい、というわたしたちの希望は、それを自分の所有として、私有の財産として登記したい心もちとはちがいます。社会のもの、みんなのものとして、そういうものがあればよい。現在金もちだけの便利におかれている社会条件を、そういう便利のものにしたい、と思っているわけです。
ですから、さっきの親子の関係でもわかるように、家庭というものが本当に社会的保障の上につくられるものとなり、銘々が社会人として独立した社会的な保護をうけ、そういう人たちが愛情によって集ったグループが家庭ならば、今までのわれわれの家庭においてのお互の負担、感情的な辛いいきさつ、財産争いのゴタゴタ、そういうものはよほど変化するのです。人間の銘々が幸福に生きようとする本能はある程度社会的に充たされて行きます。生活と対人関係はより人間らしくなってゆく可能がふえます。慾張りでなくっても食べて行けるし、薄情にならなくたって、老後の安心は守られます。そういう条件を、自分たちの生活の中にどういう風に発見して、実現してゆくかということについて熱心に研究し、実行する。そのことが生存本能の現代史の中でのあらわれです。
革命はいろいろな形で行われます。いま日本にはブルジョア民主革命が平和のうちに行われようとしていますが、それと同時に勤労者の、人民の民主革命も進行しています。ソヴェトでは数十年にわたる革命を今までに経て来ました。しかし、そういう風に革命の歴史がつみ重ねられても、ただ社会制度が変ったというだけであるならば、人間の真のよろこびはどこにあるでしょう。制度が変るきりなら、役所の官制が変ったのと大してちがいません。そうじゃなく、社会制度が本当に変ったときには、生活のやり方が変って、私ども人間も心の組み立て、その表現、あり方が変って来るからこそ、よい社会の制度の上では私どもの幸福がまして来るのです。ただ口先で、いろいろなことをいって、社会主義だとか、民主主義だとか、しまいにはキリストまで引張り出して恵みを乞う、そういうおかしな、すり変えられた民主主義は真平御免だと思うのです。私どもはロシアの勤労階級の人々と同じ二十世紀の世界歴史の中に生きて来たのです、けれども、われわれの今まで生きて来た生き方は勿論のこと、民主主義の時代だという今でも、なかなか本当の民主主義になっておりません。憲法が変ったって、いきなり、すべての人が教育をうけることは出来ないのです。例えば女の人口のうち、あれだけ多くを占める繊維工業の若い十四五から二十歳までの勤労女性の生活はどうでしょう。倉敷には有名な大原コレクションがありますが、この倉敷で文化講演会があっても、総同盟あたりが締めつけにしている工場では、工場というところは働くためのところです、とポスター一つはせらず、講演会へ娘たちを出してよこしません。すべての人は教育をうけることが出来るという憲法の言葉は、決してまだ実現されておりません。それは実現されなければならないことを、実現させる方法を見出すべきであることを知らないのです。そういう風に文字の上の進歩を、現実社会の進歩として実現すべきであることを知って、実現して行くように努力することが、人間の良心に立つ行動であることを理解すること。これが一つの人間革命であり、人間発展としての民主主義確立の意味であるとおもいます。
同時に、人間の生活は、ある期間は食べるばっかり食べ、次のある期間には絶対食べることはしないで、別のことをするなんて、変なことが出来るものでありません。よく働いて、よく休んで、人間らしい文化の生活も営み、教育もうけるというのが人間の生活であり、勤労者人民はそれをどんなに希望しているかは、世界最初のメーデーのスローガンにもあらわれました。二十四時間を、八時間働いて、八時間休養して、八時間教育をうけるということは、アメリカの労働者が世界第一回のメーデーで要求したことです。私どもの文化活動とか、社会的な働きをしている者の人間発達は、綜合的にされるべきものです。すべての今日の現実、すべての今日の問題をひっくるめて、明日の可能性をその中から発見し、それを実現するように実行しながらすすんでゆくものです。
たとえば、人間性の発展としてあらわれる才能というものについてみても、現在の社会では、才能が多くの場合、偶然によって発見されて来ています。ソヴェトの各工場にはみな文化サークルがあって、シーモノフなども工場のサークルから送られた作家です。舞踊でも、オペラでも、文学でも、あらゆることが、文化サークルの中にあって、そこで、この人たちの好きな、やりたいことをやっているうちに才能が成長し、発見され、みんなが助け合って地区の文化サークルのコンクールに当選する、さらに地方のコンクールに当選して、そういう人ならば、とアカデミーまで勉強にゆく可能が出来る。個人的な、一人でも競争者をけおとさなければならない、アナーキスティックな競争心は必要ない条件があります。本当によい労働者、そして本当にいい歌い手であれば、あの男の歌ならみんなが聴いて喜ぶ、あの人をわれらの歌い手にしようじゃないかと、だんだん上のコンクールへ出したり、勉強させて、アカデミーまで送り出すのです。こういう可能が、社会条件のうちにあれば、才能というものは、ほんとに皆の宝で、自分だけの立身のタネでないことがわかり、そのことで芸術も高められる条件が加わります。
私ども人間の感情表現が、そういう風にして現実に生活の条件によって変るということをはっきり理解すれば、今日ソヴェト生活についてのいろいろなお話は、私たちが現に生きている今日の日本の社会をどう変えた方がいいか、どう変える可能性があるかについても、実にどっさりの教えるところがあるわけです。
新聞を見ると、暴力団狩りが始まっております。まずこの食糧の問題、労働賃金問題、インフレ問題は、一朝一夕に、てっとりばやい効果が示せないから、出来ることから早くやって、誰の目にも悪いとしか見えないところに掣肘を加えておくのは、賢明でしょう。闇の大親分が捕まった、料理店がしめられた、それらはたしかに社会不安の幾分をへらします。しかし、新聞では一千万人の失業が見こされていて、その見出しには、失業保険による生活安定の見透し確立と書いてあるとき、私たちの心は果して安定を感じるでしょうか。闇の親分といい、犯罪的行為といい、それは非道な戦争の強行と、その後の社会生活の破綻が、根本の原因です。人口の大部分を占めている勤労者の生活の不安が解決されないまま、その結果にあらわれた誰の目にも悪いものを掃除したとしても、根本矛盾がそのままでは、また、たちまち悲劇は反復です。きょうの往来を歩くと、到るところ「スリが狙ってる!」と立て札があります。あれをみて戦争中、「スパイ御用心!」と到るところに貼られていたポスターを思い出さない人があるでしょうか。そして、あの悲しいポスターと、この歎かわしいポスターとが、本質において、一つものだということを感じない人があるでしょうか。それを一つとして感じる能力こそ、社会的な文化性にほかなりません。
ソヴェトの話が日本の話になってしまいましたが、ソヴェト社会について、何故日本の私たちが語る価値があるかといえば、ソヴェトは自分たちの意思で、自分達の幸福を守り得るような社会を作って来たからです。自分たちの目の前にあることをどう見るか、そして、どういう風に発展させて行くか、われわれの未来を人類的な形で昂めて、新しい民主的社会に近づけて行く可能性の問題が、ソヴェト社会の一歩進んだ民主主義の方法と経験のうちに示されているからです。私たちがより明るく、
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