の親でない親をもった青年が、いろいろな苦しみの中にもだえているし、「行人」のように自分を愛するのか愛さないのかわからない、ちっとも積極的な感情表現をしない妻をもったインテリゲンチアの男の苦痛、そういうものを沢山扱っております。ところが、ソヴェトへ参りまして、いろいろ見ているうちに大変驚いたのは、家族というものが日本で考えられているような、とじこめられた屋根の下にうごめいている家族で全然ないということです。もっともっとひろく社会の中に押出されている、一人一人が社会に役だつ勤労者であるということから、社会そのものによって保証された条件をもって集っている集団としての家族です。そのことで非常に驚いたのです。私がロシア語を習っていた或る奥さんが、私のうちへいらっしゃいというので参りましたら、大きな息子さんがある、その大きな息子さんと旦那さんとがお茶を飲んで話をしていると、息子さんはお父さんをお父さんとは呼ばない、そのお父さんを、たとえばミハイロ・ミハイロヴィッチという父称で呼んで、そして話しているのです。不思議に思っていたら、お父さんはそれに気がついて、不思議に思っておられるらしいが、これは私の息子ではない、私の妻の息子です、そういうのです。面白いでしょう、実にはっきりしています。私たちは二度目の結婚ですから、私の結婚するときにはもうこの子供は生れていたのだというのです。前の人は革命前の軍人であって、何か将官だった人だそうです。つまりその人と離婚したとき、女の子供と男の子供がいたので、子供たちをどっちで育てるか協議したわけですが、男の子は僕はお母さんと暮したいといい、女の子は私はお父さんと暮したいといったので、別れた夫の方へ娘が行って、お母さんの方へ息子がついて来たのだと説明してくれました。そういうことは、今まで日本の社会にもございますし、これからもあるでしょうけれども、その場合日本では形式にはめて、お父さんと呼ばせ、お母さんと呼ばせるのです。一緒に別れて行った女の子にとっても、お父さんが二度目の結婚をしていれば二度目のお母さんがあるはずです、けれども、その娘は男の子と同じようにお母さんとは呼ばないで、アンナ・ミハイロヴナならアンナ・ミハイロヴナと呼んでいるのでしょう。つまり、その人たちは親子の関係についてずっと楽で、自然に考えているのです。母親というよびかた、実の親子らしさ
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