たのよ、とあとつけ、よく笑ったものでした。それほどはっきりした印象としてのこったのは、下村観山氏が漫画をかいてロンドンから送って下すったからでした。いくつかコマのある続き絵で、その当時の流行で髭を長く尖らした若い父が気取って山高帽をかぶり自転車のペダルをふんでいる。むこうから女のひとが犬をつれてやって来た。それをよけようと四苦八苦してバランスをとりそこねている父。遂にころげ落ちた父が、哀れややっと起き直って前方を眺めると、自転車ばかりが非人情にも主人をのこして遙か彼方へ進行している。そういう絵がペンとインクで描いてありました。
 子供たち私共は、その絵ハガキが大好きで父がかえって後も度々出しては見たものですが、母は、ほんとにいやだ、とか、あぶないのに、とか云ってそうよろこびませんでした。今になって考えれば、三人の子供を育てながら、経済的苦労を辛棒しつつ五年の間留守をしていた母の心持は複雑であって、山高帽をフッとばして自転車から落ちたりもしているロンドンでの父の暮しぶりに対し、単純な笑いを爆発させることは出来なかったのでしょう。父の気分も、母の心持も、味い深く感じられます。
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