写真に添えて
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)祥瑞《ションズイ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから2字下げ]
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これは、長さ一寸余、たけ一寸ばかりの小さい素人写真です。焼付も素人がしたものと見え、三十年後の今日でもこの写真の隅に、焼付をしたひとの指紋のあとがはっきり見えます。やっと小学校に入ったぐらいの年であった私あてにかかれた次のような文句が裏にあります。
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「コレモ ユリコサン ニアケマス オトウサマカ ナニヲシテ イマスカ オカアサマニ オキキナサイ オカシイデショウ
〇六・三・二六」
[#ここで字下げ終わり]
ロンドンから母宛に来た手紙の中に封じこめられたものであったのでしょう。コレモ、とあるのだから、きっと何かほかにも私にくれたものがあったのでしょうが、それが何であったか思い出せず、残念に思われます。
父が、美術に対してどのような鑑識をもっていたかということは、私に明瞭には答えられません。ときには文学の仕事をやっている娘とはちがった趣味を父が持っていることを感じ、建築家は、家とくっつけて絵でも見るから、そうなのかしら、と思うことも少くありませんでした。例えば、父はずっと昔から、いずれかというと、装飾的な要素のかった、色彩的な絵をこのみました。ブラングィンがヴェニスの景色をごく色彩的な効果で描いたのをもっていて、それなど愛しておりました。
家庭で、子供たちの美術的な教養を高めるような努力というものを特別にはしませんでしたが、何かの折にふれ、若い時分の思い出として、高等学校時代にこの祥瑞《ションズイ》を買ったんだよ、なかなか俺も馬鹿にしたもんじゃなかろう、と笑いながら、柱にかかっている一輪差しを眺めていたことがあり、また、今も古ぼけてよごれながら客間の出窓に飾られている石膏のアポロとヴィナスの胸像も、やっぱり高等学校時代の買物で、これを貧乏書生が苦心して買って家へもって帰って来たら、八十何歳かの祖母が、そんな目玉もない真白な化物はうちさ[#「さ」に傍点]いれられねえごんだと国言葉で憤慨し、それを説得するに大骨を折ったと話したりしたこともありました。
金があったらば、父も少しはよい絵を買いましたでしょう。自分ではそれが出来ず、仏蘭西展などがあったとき、私を呼んで二人でカタログなどをひろげ、買うならこれが欲しいなどと話し、実際にそれを買うということは出来ませんようでした。
陶器の趣味についても同様でした。やっぱり逸物を手に入れるには金がいる。そこまでは手が届かぬ。それで晩年は見物だけでした。亡くなる前の年の秋ごろでしたか壁懸《タペストリイ》の展覧即売会がありました。その中で、優れたものを当時建築が完成しかけていた某邸の広間用として是非おとりになるようにするのだといって、自分の手で建てられた家のそれぞれの場所に、自分の気にも入った世界的レベルの絵画、工芸品の飾られるのを見て、深いよろこびと満足とを感じている様子でした。そういう時の、父の老いたが若々しい光のある顔は、美術品に対する無私な情愛というようなものに溢れており、娘の私の心をうごかしたものでした。
没する数年前、久しぶりでロンドンへ再遊しましたが、そのときの旅行の目的は父自身の愉しみが主眼ではなかったので、大して好きな骨董店まわりも出来なかったようでした。只、三十年前に指環、カフス・ボタンのような小物を買った店が、現在でも同様趣味のある小物を売っているので、懐しがっておりました。私に、折角ロンドンにいるのだから大英博物館だけは毎日でも行って見て置けと頻りにすすめました。特にギリシア室を見ろとも云い、美術的教養があるのでもない私も、或る親しさをもって見物しましたが、それには、また一つの思い出があったからでした。私が女学校の二年か三年で、英語のすこし長い文章がよめるようになった時、不敵にも教科書の英語でない、何かなかみ[#「なかみ」に傍点]も面白い英語の本がよみたくなりました。父のところには、とにかくそういう英語で、しかも絵入りのがあるので、何か欲しいとせがんだら一冊の紫紺色表紙の本を貸してくれました。「古代ギリシア彫刻家」という題で、父が云うには、これはためになる本だし、絵もあり、活字もパラリとしていて、書いたのは女の人だからお読みということです。
私は奮起して字引と首引き、帳面に自分でわかったと思う翻訳をしてゆくのですが、女学校ではピータア大帝が船大工の習業をしたというような話をよんでいるのですから、どうもデルフィの神殿だとか、破風だとか、柱頭《キャピタル》、フィディアス等々を克服するのは容易のわざでありません。女神の衣の襞がアテネの岸を
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