作られてゆく諸原因を改善してゆきたい希望と骨折りとは、其の事実を知っている人々が間接直接に自分にもかかわる文化上の責任として忘れてはいないことであると思う。
私たちはそういう感情をもってその朝の試写会にも行っているわけであった。映画の専門家でもないし、音楽の専門家でもないし、宣伝の専門家でもないけれども私たちがそういう感情のなかでそういう映画も観るというところに、日本の今日の文化の生きた実質がある。
挨拶をされた人の感覚は、そこをつかんでいなかった。
自分たちの国からこしらえてやるものとしての情愛が、試写会に来ているあらゆる人々の胸底にめざまされてゆくような、そういう感情へのアッピールは、挨拶の言葉の中からも作品の世界からも迸って来なかった。
或るドイツの人が、「日本の女性」を評して、あれは日本の方には面白いかもしれないが私たち外国のものにはそうでない、と云ったという話をちらりと聞いて、私たちは苦しく笑わざるを得ない。だって、私たち日本のものも、あれを面白かったとは感じ得なかったのだから。しかし、私たち日本のものに面白くない作品は外国の人にも大した興味はないのだという自然で明白
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