な事実を、日本の一部ではそれなら当然なこととして判断のなかに摂取してゆかないような一種の風がある。そんな習慣にしろ日本の文化の世界的には未熟なある性格がそこに語られているのであると思う。
国民文学について様々の論議があるのだが、それを私たちの文学の実感として感じとろうとするとき、この映画についての場合とそっくりそのままではないけれど、どこか共通のような、何となしまだしん底から湧き出て来る水脈に触れていない心持がある。
国民文学と呼ばれるからには、その作品が本当に日本の私たちの刻々の生のなかから生れたものであると感じさせる魅力と同感とを湛えているものでなければならない。深い美しさをもっていなければならない。私たちは生活というものを知っている、その精神でよまれて、そこに嘘のないことの感じられる意味で、真実のこもったものでなくてはならない。
こう考えて来ると、すべての作家たちは、これらの課題がつまりは全く根本的な文学そのものの生ける課題であって、その達成をめざして、めいめいにこれ迄も努力し、或は迷って来てもいたのだと思うしかないのだろうと思う。
国民の文学と呼ぶに足るものが其々のジャ
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