髪と一緒に、灰掻きのように骨ばッた大きい手を、伸子の顔の前で振った。
「まるっきりお解りなさらないんですよ、あの方々には。私共の生活に、たったそれだけのこともどんな関係があるかね。饑え死しないだけの給料を払ってあるから、もういいとお思いなのかもしれませんよ」
 そこで、彼女は皮肉なような、悲しいような微笑を皺だらけの顔一面に湛え、猶小さい声で伸子に囁いた。
「――あの方々にはね、人生なんぞちっとも分ってはいないんですよ。寄宿舎から、学校、学校から寄宿舎、ね。活きた規則書というばかり!」
 伸子は、襟《カラー》をつけ終った服に着かえ、鏡台の前で一寸工合をなおした。ミセス・コムプスンの掃除もすんだ。彼女は伸子の後に来た。
「貴女にはよくこちらの着物がお似合いですよ、それにいいものをお持ちだから」
「そうかしら――。どうも有難う。これですっかり埃がなくなったわ」
 伸子は、机の上の本など動した。ミセス・コムプスンは、直ぐ出てゆかず、寝台被のずれをなおしている。――彼女が入って来た時、伸子は珍しく会ったのだから、少し心づけをやろうと思った。けれども、話しているうちに心持がこじれた。ミセス・コムプスンが、うまく同情させたと思うようでは厭だ。この次やろう。早く出て行ってくれればよいと、机や鏡台のところをぶらついたのだ。
 ミセス・コムプスンは去り難そうにしていたが、やがて、
「―― Well ……」
と呟きながら、やっこらと水桶を持って敷居を跨ぎかけた。窓の方を向いたまま、伸子は思わず破顔した。いかにも、心づけなんぞは諦めた。というがっかりした婆さんの感情がありありと分り、ひとりでに好意が湧き出して来た。伸子は、いそいで机の引出しをあけた。
「一寸! ミセス・コムプスン」
 彼女は、日本の祝儀袋を見つけて、一|弗《ドル》入れた。
「これ」
 反射的に前掛で拭いてさし出したミセス・コムプスンの掌に、朱と銀で麻の葉模様を出した小袋をのせると、伸子は、相手の訝しそうな視線に笑って答えたぎり、ぴったり、部屋の扉をしめた。
          ――○――
 寄宿舎じゅうが、攪《か》き廻した石鹸水のように元気よく、活気づき泡立っている。夕飯時だ。廊下では、バタバタ駈ける跫音と一緒に、
「一寸! 待ってったら! 直ぐだから」
と、高い鼻声で叫んでいる声がする。伸子の部屋に近い、洗面所の戸が、
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