段階においては、純粋な労働の成果に関する関心ではなくて、債鬼への直接的連想の苦しみなのである。せんだって私は信州に数日暮し、土地の新聞を見て、深く感じた。信州は養蚕地であるから、本年の繭の高価は一般の農民をうるおしたはずであり、例えば呉服店などで聞けば、今年は去年の倍うれるという。しかしながら、新聞は、繭の高価を見越し、米の上作を見越して債権者はこの秋こそ一気に数年来の貸金をとり立てようとしているから、それを注意せよ、当局もそこから生じる紛争を警戒している、というのである。農民は今日の社会的事情にあっては、実った稲を見て、その美しさを賞するより先に、費された労力と迫っている懸引とのために覚えず歎息するのである。自然の山野はたしかに村のあちこちで美しいとしても、その美しさをそのままに感じ得ない事情にしばられている人々の胸から、のびのびとした豊かな自然の美を描く言葉はきかれないのが当然ではないか。自然のあらあらしさがどのようであろうと、農民にとっては債鬼のあらあらしさの方が重大となっているのである。
日本文学の一方で、自然の美は消費的対象として扱われて人為的に衰弱的となりつつある。他の一
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