自然描写における社会性について
宮本百合子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)気質《テムペラメント》
−−
「見る人のこころごころの秋の月」という文句がある。天にはただ一つしかない秋の月ではあるが、その月を眺めるひとの心のありようによって、清明な快い月であると思われるであろうし、月のさやけさに又かえって恨が深まるようなこともあろう。自然と人間との感情の交錯を、人間の主観の立場に立って観察したわかり易い一例であると思う。
古人がすでにその風流の途上で看破している自然と人間の主観との以上のような交流は、特に日本古典文学の領域の中でおびただしい表現をもっているのである。然し、人間の主観的な感情の鏡によって、自然の姿が悲喜さまざまに観られ感受されると同時に、そのような各人の感情の発動する根源には、そのひとの住む自然が環境的な影響として力強く作用しているのである。
例えば、同じヨーロッパの中でもスペインやイタリー、ギリシャのような南方の諸国の自然と、ドイツ、ロシアなどのような北方の国々とでは、気候によって咲く花が違い空の色がちがうように、言語の発声法が異り、人々の気質《テムペラメント》がちがって来ている。ナポリの、多彩な、陽気な、歌ずきで騒々しい、花と景物にあふれた市場の賑いを描くとき、私どもは決して、ノールウェイの荒涼としたフョールドを描写する感情で描写することはできない。そしてまた、フョールドばかりを眺めて育った人がナポリに来てうける感動の強烈さは、おそらくナポリに生れてそこでばかり成長したものの心持では、おしはかれぬものがあるだろう。暗くて寒いドイツ生れのゲーテが、あれほど大部なイタリー紀行を書いた秘密の一つは、彼が古典芸術へ深く傾倒していたことのほかに、こういう微妙なところにもある。ロシアのように広大な国土のところでは、一口にロシアの詩人、作家といっても、黒海沿岸、南露の詩人の気質・表現と、半年雪に埋もれ原始密林を眺めているシベリア地方生れの詩人、作家の気質・表現とは、その扱う題材がちがうように、著しい相異がある。
セラフィモヴィチという作家の書いた「鉄の流れ」は日本訳もあって、多くの人々に愛読された作品であるが、その横溢的用語、色彩のつよい表現、強くて大きいリズム、叙事詩的形式などは、いかにも彼が南露のコサック生れであることを物語っている。同じ時代に発表されたロシア作家の作品でも、「赤色親衛隊」などのもっている諸要素は、セラフィモヴィチと全く反対の調子のものであり、作者フールマノフの南方的でない気質を示していることが見られるのである。
ところで、現実について観察を進めてゆくと、自然と人間との交錯の関係は、以上にのべただけの単純な地理的な相互的影響に止まらず、更に人間の側から猛烈な積極性が働きかけられることが見られる。人間は自然の一部として地球の上に棲息しているのではあるが、その生存意欲によって、人間の生活の進歩と豊富化のためには、山を河に変え、水を火に換えている。人間社会と自然とは、人間による自然力の最大な受用、制御、生産力への転換としての関係にある。そこで、人間社会の構成が生産手段の進歩、複雑化するにつれて、同じ人間であっても、直接、体でもって自然と組打ち、泥にまびれ、水にぬれ、坑にもぐって働かねばならない者と、それらの労働の結果に生れた利益だけを物質的に、精神的に利用して、自身の手は傷めず生活する者とがあらわれて来る。
自然に対する感情の社会性、階級性というものの文学以前の分岐点は、ここに根を置いているのである。
今日は雨が降っている。窓によって外を眺めると、田圃の稲の青々と繁ったところに、蓑笠つけて一人の農夫が濡れながら鍬をかついで歩いてゆく。その姿を一幅の風景画と見たてて、ああ、いい景色だとだけ眺め得る人もあるであろう。その人々は、自分で雨にぬれる必要がないから、雨中労働をしなければならない農夫の感情がどうであろうかとは直接考えられない。同時に、稲のできばえによって、年貢の上り高がちがう地主が、自己の利害の打算から、その季節と雨とが作物に及ぼす関係を敏感に計算する、その感情の生々しさも理解し得ないであろう。
同じ雨の朝を、登校する小学生のすべてが、同じ感情で眺めるであろうか? ゆとりのある家の子供である一郎は、雨がふっているのを見てひどく勇み立った。何故ならば、一郎はこの間誕生日の祝いにいいゴム長を一足買って貰った。雨がふったから今日こそあれをはいてこう! そう思って一郎には雨がうれしいのであるが、一郎の家の崖下の三吉のところでは、全然ちがった光景が展開されている。三吉は、上り口のかまちに腰をかけて、ゴム長の片っ方を手にとり、しきりに困っている。兄ちゃんのお下りであるそのゴ
次へ
全4ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング