ム長は三吉の足に合わせては大きく歩きにくい上に、今は傷んで水が入って来る。「困ったなア、母ちゃんたら、買ってくんないんだもの!」「何ぐずぐずしぶくってるのさ、きょうぐらいはけるじゃないか! さ、いい子だから早く学校へおゆき、今度お金のあるとききっと買ってあげるから、ね。」こうして雨の中を心地わるく学校へ来た三吉と一郎とが、その日雨という題で作文を書かせられたとしたら、この二人の、全く違う境遇の少年らは、各自の心に映った雨をどのように描くであろうか。一郎が、僕は雨の日は面白いと思うと、雨の中を闊歩する活溌な描写をし、三吉が、僕は雨の日はきらいだ、歩くにも気持がわるいしと書いたとして、先生がもし皮相的にその文章をよんで、一郎がより生活力をもち溌溂とした子であり、三吉の方は消極的であると判断したら、どうであろう。それはそれぞれの子供の社会的現実を理解しているといえるであろうか。
更に、この二つのタイプには属さないもう一つの態度が、子供の作文の中にもあらわれ得る。それは、自分の生活とはきりはなして雨を眺め、春雨はやさしく柳の糸をぬらしています云々のいわゆる美文的作文である。
然し、この美文的作文が自然描写の場合には非常に多くのパーセントを占めている。そのことは過去の文学の大きい一つの特徴として、こんにち私たちの注目をひくのである。過去の文学において、日本のみならずヨーロッパでも、自然は美なるもの、無垢なものとしての先入観によって、到って観念化されて扱われて来ている。ヨーロッパの自然は、ギリシャ時代、ルネッサンスにあってはアポロだのジュピターだのという伝説の神々の仮名で重々しく擬人化され、美化され、中世紀は、たとえそれは栄光的であるとしても全く人為的な、神学の造化物として描かれた。あのように科学的天稟ゆたかなゲーテでさえも、ファウストの中では、自然と伝説とをこね合わせてロマンティックな描写をしているのである。ヨーロッパの過去の文学では自然が観念的な宗教や哲学的見解を語るための仲介物としてつかわれ、自然と人間とが二元的に相対している。
ルソウは、その文筆的労作の中で、人間を自然の一部としてみ、神話を自然からぬぎすてさせた先達の一人であったが、彼の時代においては、自然を変革してゆこうとする人間の積極的な科学的な社会性の面から自然にとりあげられ得なかった。神学的、宮廷的不自然さに対する自然として強調された。何故ならば、十九世紀中葉までの過去の社会で、文学をつくり、文学を愛好する人々の層は、いわゆる中流以上の有識人の間に限られていた。有識人たちの日暮しは、直接自分の肉体で自然と取組みもしないし、野心満々たる企業家でもなかった。一種の批評家として、あるいは当時の支配的社会勢力の理論化のための活動家としての役割である。
近代工業が勃興して、大工場が増加し、そこに働く労働者とその家族の数が、この世界に殖えて来るにつれて、文学における自然はこれまでにない相貌によって描かれるようになって来た。これまでの文学とその作者の日常生活の中では目に入れられなかった大都会のはしはしの、不潔な、日夜雑沓し、工場の黒煙濛々たる労働者街の自然、激しい汗を流させる労働の対象としての自然が、その息苦しい、だがバルザックを恐怖させた底力をもって、歴史を自身の肩で押しすすめながら出現して来たのである。例えばゾラの小説に描かれているように。
自然の描写が、我が日本文学の中で、どのように推移しているかということは、われわれの深い興味をよびおこすのである。万葉集の中にうたわれている大らかな明るい、生命の躍動している自然的な自然の描写が、藤原氏隆盛時代の耽美的描写にうつり、足利時代に到って、仏教の浸潤につれ、戦乱つづきの世相不安につれ、次第に自然は厭世的遁世の対象と化した。あわれはかなき人の世のうつろいを暗示する姿として自然が文学に描かれ、徳川時代の町人文学の擡頭時代には、すでに万葉時代の暢やかさ、豊醇さは自然の描写から遠く失われ、一方に無情的自然観を伝承していると同時に、町人の遊山の場面として生活に入って来る自然、あるいは不自由な困難な道中の印象としてのこされた自然、絵画の分野では、装飾的画題としての自然が描かれている。
明治三十年代の初頭に、徳富蘆花が「自然と人生」という自然描写のスケッチ文集を出版しているのであるが、これは、こんにちよむと、日露戦争以前の日本文学の中で、自然がどう見られていたかを知ることができ、なかなか興味がある。蘆花は当時としては欧州文化を早く吸収したクリスチャン出であったのだけれども、自然を描写する場合になると、漢文脈の熟語、形容詞をつかって、こんにちの読者にはふり仮名なしにはよめない麗句で朝日ののぼる姿を描き、あるいは、余情綿々たる和文調で草木の美
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