時代と人々
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)巴里《パリ》

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(例)春のやおぼろ[#「春のやおぼろ」に傍点]は
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 わが師という響のなかには敬愛の思いがこもっていて、私としては忘られない一つの俤がそこに繁っている。
 千葉安良先生は、今どこで、どのように生活していらっしゃるだろう。
 二十余年も前、お茶の水の女学校の先生をして居られた、この一人の女性の名を知っている人の範囲はごく限られているだろうと思う。同僚の間で先生がどう見られていたかということなどは知らない。けれども、私の生涯のあの時代に、千葉先生が居られたということは、今日も猶一種の感動なしに思い出せないことである。
 女学校の三年目という年は、どんな女の子にとっても何か早春の嵐めいた不安な時期だと思うが、私のこの時分は暗澹としていた。
 丁度父は四十歳のなかば、母はそれより八つほど若くて、生活力の旺であった両親の生活は、なかなか波も風も高い日々であった。親たちはどちらかというと自分たちの生活に没頭していて、そのむき出しな率直な大人の世界の幅ひろい濤裾へ、私たち子供の生活をもひっくるめて、朝から夜が運行していた。
 そういう熱っぽい空気の裡で、早熟な総領娘のうける刺戟は実に複雑であった。性格のひどく異った父と母との間には、夫婦としての愛着が純一であればあるほど、むきな衝突が頻々とあって、今思えばその原因はいろいろ伝統的な親族間の紛糾だの、姑とのいきさつだの、青春時代から母の精神に鬱積していた女性としての憤懣の時ならぬ爆発やらであったわけだが、その激情の渦巻は、決して娘をよけては通らなかった。つむじのように捲き上った感情の柱は、一旋回して方向をかえ、娘と母との間に雪崩れ落ちるのが常だったが、そういうとき母は、娘が女の子のくせに女親の味方にならないということを泣いておこった。そして父に向ってもって行った情熱のかえす怒濤で娘を洗うのであった。
 まるで孵りたての赤むけ鳩のように、感覚ばかりで激しく未熟な生の戦慄を感じ、粗野な智慧の目醒めにいる女学校三年の娘に、どうして母の女性としての成熟しつくした苦悩がわかろう。
 その時分、よく蒼い顔をして、痛い頭で学校へ行った。母は出産のむずかしいたちで、いつも産後は難儀した。赤坊の世話は自分で出来ないで看護婦がした。その看護婦は離れた室にいることだし、商売になれすぎてもいて、夜なかにし少し赤坊が泣くぐらいのことでは、なかなか目をさまさない。それが母の心配になるので、お前は目ざといから、と私が赤子と看護婦のわきに臥かされた。弱くて到頭育ちかねたその赤子は一夜のうちに幾度か泣いて、泣くと容易にしずまりかねた。三度に一度は、むし暑い蚊帳の中で泣きしきる赤坊を抱いて歩いているうちに、やがて朝になってしまうこともある。
 そういう夜なか、さては頭の痛い昼間、種々雑多な疑問が苦しく心にせめかけた。うちでも学校でも、大人の世界は奇妙で、そこにある眼はむこうからばかり都合のいいようにこちらに向けられているように感じられる。たとえば、どこの親でも何心なく云うように、母も何か訓戒めいた場合には、今日まで生んで育ててくれた親の恩ということについて云うのであったが、それは内心の問いかえしなしに娘にはきかれなかった。親たちとしてこちらに向う態度にかさなって、漠然としかし鋭く夫婦というものの理解しがたい営みが娘にはまざまざと迫っていて、そう云われるとき、焙《や》きつくような切なさで毎晩自分が抱く赤子の誕生が考えられた。あんなに争い、そして、子供がうまれてゆく。恩とはどういうものなのだろうか。
 学校では三人仲よしがあったけれども、そんなことは迚も話しあえなかった。苦しいけれども悲しいのではないその気持。更につきつめればその苦しさにさえ云いあらわせない生の歓びが脈うって胸にこみあげて来るような息苦しい心持を、果してどうあらわしたらよかっただろう。
 女学校の学課はその混乱に対して全く何の力もなかった。大正初めのその頃文学好きな人は殆どみんな読んだワイルドの作品だのポウだの、武者小路実篤の書いたものを手に入る片はじから熱心に読み、自分から書くものはと云えば、手に負えない内心の有様とはかかわりない他愛のない物語だったことも、精神が不平均に芽立ちむらがったその年頃の自然だったのだと思われる。
 四年生になると女学校では西洋歴史を習う。初めての時間、西洋史の先生が教室に入って来られた時、三十二人だったかの全生徒の感情を、愕きと嬉しさとでうち靡かせるようなざわめきがあった。
 その女学校の女先生が制服のように着ていたくすんだ紫の羽織をつけただけは同じだが、その脊ののびのびと高い、やや浅黒い、額の心持よく緊張した顔立ちの若い先生は、第一瞥から暖い心情的な感じで若い生徒たちを魅した。多い髪がいくらか重そうにゆったりと結われているところも、胸元がゆったりとしているところも、動作の線がのびやかなのも、みんな生徒たちをよろこばせた。
 それが、千葉安良先生であった。学校の空気には、抑えても溢れる若さに共感をもつような要素にかけていた。情緒のうるおわされるものがなかった生徒たちは、おそらく一人のこらずと云っていいくらい、千葉先生には好意をもったと思う。千葉先生は毎朝の体操のときに水色メリンスのたすきをかけた。すると、級のなかに、同じようなメリンスのたすきをこしらえて、丁度千葉先生がそれを結んだように房さりと結んでかけていたひとがあった。何日か経ったら、級の担任の女先生から、生徒一同が叱られた。この頃、誰の真似だか知りませんが、変にずるずると髪をまいたり、大きいたすきをかけたりなさる方があるようですが、みっともないからおやめなさい。
 少くとも一つだけの愉しみは学校にも在るようになった。私は級で一番の前列だったから、まるで自分ひとりがそのめずらしい人間らしい心持のする先生とさし向いでいるような集注で、西洋史の時間をすごした。千葉先生の歴史は、歴史というものが複雑多岐なる人間交渉をめぐって展開されることを私たちに教え、一つの事件の結果は、結果そのものがもう次の出来ごとの原因となってゆくような、物事のいきさつを描き出して示した。そのことは、私に、いろいろな身のまわりの出来ごと、自分の心の中の出来ごとにも、やはり辿るべき原因やその結果があるのだということを明瞭にした。
 千葉先生には、何もわかっていなかっただろうが、私としては、この興味のふかい西洋史の時間のおかげで、自分の渾沌世界に、どうやら整理をつけるおぼろげな筋道を与えられたのであった。
 千葉先生が熱心に教えられるその眼を見ると、感動が心に湧いた。その眼は、私たち若いものの善意を信頼して真率な光にみちていた。詮策ぽく細められてもいないし、厳しく見据えられてもいない。それは本当に心の窓という風で、私はそこから偶然自分に向って注がれる視線にあうと、さあっと暖い血汐が体の中を流れるように感じた。そして、自分のもっているいい心を自分で信じて生きて行っていいのだということ、そのためには骨折りを惜しんではならないのだ、という真面目な鼓舞を感じるのであった。
 四年になってから、もう一人、やはり人間らしい真直な気持よい視線で生徒を見る先生が出来た。堺先生と云って国語の先生であった。この先生も、曇りない真実のある眼で、国語の時間は張合があった。何をどうとも云えないが、面白いという思いがその先生と自分との間を交流するようで、私はいつも謹んで一生懸命であった。
 五年生になって、千葉先生は教育をうけもたれ、心理学の講義がはじまった。ごく初歩の概論だったにちがいないけれども、この学課の興味は全く私を熱中させた。初めてここで、学校で学ぶことと自分の生活全体の関心とが相通じる一点を持ったようで、私の文学的読書も段々奥ゆきをもちはじめた。その頃はもう「白樺」の影響とトルストーイの作品が私の成長の糧で、千葉先生には、課外の読書のことで放課後、たまに三十分ぐらい話を伺うようになった。
 先生は、いろいろのことを考慮してであったろうが、余り私的なことや感情問題にはふれず、単純に本の話をされた。そして、その本の選択については、年だとか女生徒だとかいうことにかまわず、いきなりこちらの知識慾の理解力とにたよって、教えられた。一つの本からひき出された新しい興味によって、又その方へ読書をひろげてゆくという風で、小説のほかのいろんな啓蒙的な科学・哲学の本をよむことが出来た。
 今思えば、貴重なのは決して、そうやって読んだ何冊かの本の知識ではなかった。一人の人間の裡にある可能を十分にのばそうとする千葉先生の偏見のない若々しい誠意が、私のうちのまともなものを急速に、よろこび躍るように育てて行ったのだと思われる。
 それには千葉先生が担任でなくて、一定の距離と自由のある位置にいられたこともよかったのだろうし、また、若い娘の感情に通暁していて、常にある程度は整理した心持で、甘えず信頼することを学ぶようにされたことも、よかったのだろう。
 女学校の最後の一年は、女学生らしくなかったとしても、本質的には実に勤勉によく暮した。著しい成長の時期であった。
 女学校がすんで、目白の日本女子大の英文科の予科に一学期ほどいて、やめた後だったと思う。千葉先生と河崎なつ先生とが、桑田芳蔵博士の教室で心理学の勉強をされたとき私を仲間に加えて下すったことがあった。ヴントの本で、一寸した実験もやったりして、その本の終るまで通った。今日ありきたりの先生気質をいくらか知った上で考えれば、こういうことにしろ、決して誰でもが自分の生徒のために計ってやる態度でないことは明かである。
 当時、年のへだたりなどということが念頭に微塵も浮ばなかったほど、私にとって千葉先生は敬愛すべき方であった。だが、恐らくは、女高師を卒業して一年か二年という頃、先生のお年は二十五六から七八という時代ではなかったのだろうか。そして、思えば、先生がいつとはなしに私に及ぼしたああいう深い人間的な感銘と、よりよい人生への願いはとりも直さず、若かった先生が御自身の女性としての生涯にも衷心から求めていられたものではなかっただろうか。
 人及び女性としてのその真摯な希望は、強烈な何ものかを内部に蔵していたこの一人の私たちの尊敬すべき先輩の今日の上に、どんな花をさかせているのだろうか。
 大正の中頃からのちの激しい時代のうつりかわりと、その間に転変した女性一般の生活の大きな変化は、千葉先生と私との間をもいつとはなし吹きわけることとなった。どちらもそれぞれに結婚もした。先生はそれより前にどういう事情でか学校をやめられた。極めて自分だけのこととして結婚もされ、現在は、私のところまで御消息はつたわって来にくくなっている。そこに、何か私たち女の生活の推移を暗示する、無限の余韻を感じずにはいられない気がする。先生よ、幸にお健やかでしょうか。
 師といえば、私の作品を初めて紹介して下さった坪内逍遙先生のこともふれなければならないわけである。
 坪内先生とは余り年代がちがいすぎていた。それに私としての結ばれかたが他動的であったことなどから、外面には大きくかかわりながら、語るとなると消極なあらわれかたになる。流達聰明な先生の完成された老境というようなものと、私の女としての四苦八苦のばたばた暮しとは、我ながらいかにもかけちがった感じだった。
 その親にたのまれて一二回作品を見てやったというだけの若年の娘にも、先生はお目にかかるかぎり懇切丁寧で、ふさわしい親切をもって対して下すっていた。しかしながら、その豊富な経験のなかでは、自身創立された文芸協会で、抱月と松井須磨子の二つの命をやきつくしたようないきさつに接して居られる。また、一度はそこで女優になろうとして後作家となって盛名をうたわれ、幾何もなくアメリカに去った田村俊子氏の生活経緯を見て居られることもあって、女性
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