と芸術生活との問題については、それが特に日本の社会での実際となった場合、進歩的な見解の半面にいつも一抹の疑念、不確実さを感じていられたのではなかったろうかと考えられる。
二十一歳の私がアメリカあたりで噂によれば洗濯屋だったとか皿洗いだったとか云われている東洋学専攻の男と結婚したり、その生活に苦しんで何年間も作品らしいものも書けずにいたようなことも、先生の目には又もや女がそこで足をとられた姿として、いくらか薄ら苦く映ったのではなかったろうか。将来についても現実的に白紙の気持を抱かれたと思う。
それはまことに尤もなのだし、本人として外側から及ぼすどんな力も願ってはいなかったのだけれども、それでも先生の聰明な如才なさのうちに閃くように自身の未来を空白《ブランク》として感じとることは苦しかった。もしそれでいいのなら、こんなに※[#「※」は「足へん+宛」、第3水準1−92−36、654−1]《もが》きはしないのに。そう思えた。私は何とかして、一個の人間がそこに生きたという事実を自分としてうけがえる生活を、うち立てたかったのであった。
近代日本文学の黎明とともに生い立ったような先生といて、私の側から感興のつきない話題がありよう筈もなかった。当時老博士はシェークスピア全集の翻訳に専念して居られた。したがって程よい時間が経つと、自然私がもうお暇しなくてはいけないのだな、とさとるような雰囲気が生み出されたのも肯けるが、そのときの私としては、そういう一通り整った儀礼のこちら側では何としても表現も出来ずうち破ることも出来ない何ものかが心にのたうっていた。それにもかかわらず、一定の時がたつと、季節のちがった気流がどこからか流れ込んで来るように、私の帰るべきことが知らされて、そして若い不器用な私は帰って来るのであった。
こういう距離は何だったのだろう。
追々明治初期の文学の歴史を知るようになって、二葉亭四迷のことを読んだとき、非常に印象ふかい数行があった。四迷が「浮雲」を書いたのは明治二十年のことで、二十七歳の坪内逍遙先生が「小説神髄」をあらわし、「当世書生気質」を発表して「恰も鬼ケ島の宝物を満載して帰る桃太郎の船」のように世間から歓迎された二年後のことであった。三つ年下だった二葉亭はその頃のしきたりで当時新しい文学の選手であった「春のやおぼろ」と合著という形で「浮雲」の上巻を出版した。ところが、二葉亭の「浮雲」を熟読して、春のやおぼろ[#「春のやおぼろ」に傍点]は自身の天質がこれからの小説を書いてゆくには適していないことを知って、遂に小説をやめたということが、先生自身の回想として書かれていた。
この插話は、おどろくような自分を見る眼のあきらかさと同時に、聰明というものの限度の悲しさを私に感じさせる。人生には聰明の及び得るよりさきのものがある。
私たちの生活の発育というようなものは、つまるところ、刻々の現実にかかわってゆく私たち自身の生きようとする意慾の角度の中から、可能も見出され、様々の予想しないきっかけがとらえられてもゆくものなのではないだろうか。
男で科学の学問をするような人達はその学問としての道もあり、先輩もあり、従って師というもののありかたも明瞭になって来る。
文学の上に、師というようなものが固定して考えられるだろうか。影響をうけ、それが大きく意味をもつということはある。しかし、文学を生もうと欲する思いの根柢には、つねに今まで在るものではないもっと切実な、もっと真実に迫った人間感動をつたえたい衝動があって、その地熱のようなものは、個々の人のあらゆる具体的な血管を通じてじかに歴史の鼓動とともに生きている。
女の場合には男より一層それが社会の通念や常套と絡みあって来る。葛藤が女性を文学以前において消耗する力は、何とおそろしく執拗だろう。そのたたかいの間から漸々いくらかずつ自身の文学を成長させて来ている事実は、現在私たち同時代の婦人作家の殆ど総てが、女性として結婚生活の経験の上に何かの形でそれぞれの痕をもっていることからも考えられると思う。文学に向って何をか求めることは、とりも直さず生活の日々のなかに何かを求めることになる。この芸術本来のいきさつは、女性の場合特別に直接である。
私として第一次欧州大戦が終った丁度そのときニューヨークに居合せたことは、稀有な歴史的情景とともに、どっさりのことを考えさせられる機会となった。
武者小路さんが云っている愛というようなものに、疑いを抱いたのもこの時であった。もし人間に無条件に通じ合う愛というものがあり得るなら、こうやって初冬の晴れた大空を劈《さ》いて休戦を告げる数百千の汽笛が鳴り渡るとき、どうして人々は敗けて、而も愛するものを喪った人々の思いを察しようとしないのだろう。歓呼のうちに自分の声も合せながらもう決して還ることのない自分の良人、息子、さては兄弟たちへの思いが今こそまざまざと甦って計らずこぼされる涙の意味を、どうして考えようとしないのだろう。ブロード・ウェイが祝祭の人出と歌と酔っぱらいとで赤くそして青く茄り、顫えているような一九一八年十一月十一日の夜、そのどよめきに漂って微かな身ぶるいを感じながら、私は食べ足りた人々の正義とか人道とかいう言葉に深い深い疑問を感じた。
その時から十年とすこし経った。
私は云うに云えない感想をもって、ロンドンのセント・ポールの大寺院の前に佇んでいた。大戦のときの無名戦士の記念碑には、煤でうすよごれた鳩たちの糞がかかっている。見上げるセント・ポールの正面の大石段の日向には上から下まで、失業した男たちがびっしりつまって、或るものは腰かけ或るものは横になり、あたりに散っている新聞の切れはしと一緒になって、それはまるで巨大な生活の屑山のような有様である。
公園の草原では、若い女たちが二人三人とあちこちにかたまって、靴をぬいで昼飯をぬいた失職の体を暖めている。イギリスの公園と云えば世界に有名だけれども、ロンドンの東部の公園では、遊んでいる子供も大人も顔色から言葉つきからその骨組の工合まで、西側の人々と異っているというのは何故だろう。
巴里《パリ》の凱旋門の下では、夜も昼も無名戦士の墓辺の焔がもやしつづけられていて、そこには劇的に兵士が立って火を守っていた。
けれども、その犠牲の様式化され、装飾化されさえしたような美の形式にかかわらず、男一人に女五人の割というフランスで、夕方華やかな装いで街の女が歩きはじめる並木道の一重裏の通りを、黒い木綿の靴下をはいた勤労の女たちが、疲労の刻まれた顔で群をなしていそいで遠い家路に向っていた。木炭瓦斯で自殺したというものの名は、新聞の上で殆どいつも女であった。これは、花の巴里というところのどういう現実を語っているのであったろうか。
あんなにどっさりの女性が大学程度の教育をうけているイギリスで、あんなに女と愛を理解し大切にすると云われているフランスで、女一人が完全な独立生活を営めるだけの条件はなかなかかち得られないでいることは、私にやっぱり旧い世界共通な自分たち女や子供の生活のありようというものを考えさせた。
現実の不条理からひきはなして、たとえばフランスのように小さい銀貨の上へ、友愛だの信義だの自由だのという文字を鋳りつけることは、云って見れば何とたやすいことだろう。
自分がほかならぬ一人の女として、この世代のうちに生きているということに、私は新たな情熱を覚えた。西洋のどこともちがっている日本。而も絃《いと》のように張られていつも敏感に震動数高く世界史とかかわりあわずにはいられない日本。いつも笑っていると云われるその日本の女の骨惜みしない心の顔は、自身の言葉として何をのぞみ何をもとめているだろう。私の命のなかにその声が響いていないと誰が云えよう。
更に十年経って、今日の世界の現実は、窮極における人間の理性というものを益々信ずべきことを私たちに教えていると思う。重畳する波瀾をとおして、もし私たちが女としてただ一つの善意さえ現実に成り出させようと願うなら、いつの時代よりも世紀の紛乱におどろきひるまない判断と、沈着な意志とが求められていることは、明かではないだろうか。
こうして私たちは少しずつ少しずつ、時にはのぼった山道をまた下るような足どりにも耐えて、自身の成長と歴史の成長とを学び、もたらして行くのだと思う。
[#地付き]〔一九四二年一月〕
底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
1981(昭和56)年3月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
初出:「婦人公論」
1942(昭和17)年1月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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