した。ところが、二葉亭の「浮雲」を熟読して、春のやおぼろ[#「春のやおぼろ」に傍点]は自身の天質がこれからの小説を書いてゆくには適していないことを知って、遂に小説をやめたということが、先生自身の回想として書かれていた。
この插話は、おどろくような自分を見る眼のあきらかさと同時に、聰明というものの限度の悲しさを私に感じさせる。人生には聰明の及び得るよりさきのものがある。
私たちの生活の発育というようなものは、つまるところ、刻々の現実にかかわってゆく私たち自身の生きようとする意慾の角度の中から、可能も見出され、様々の予想しないきっかけがとらえられてもゆくものなのではないだろうか。
男で科学の学問をするような人達はその学問としての道もあり、先輩もあり、従って師というもののありかたも明瞭になって来る。
文学の上に、師というようなものが固定して考えられるだろうか。影響をうけ、それが大きく意味をもつということはある。しかし、文学を生もうと欲する思いの根柢には、つねに今まで在るものではないもっと切実な、もっと真実に迫った人間感動をつたえたい衝動があって、その地熱のようなものは、個々の人のあ
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