と芸術生活との問題については、それが特に日本の社会での実際となった場合、進歩的な見解の半面にいつも一抹の疑念、不確実さを感じていられたのではなかったろうかと考えられる。
 二十一歳の私がアメリカあたりで噂によれば洗濯屋だったとか皿洗いだったとか云われている東洋学専攻の男と結婚したり、その生活に苦しんで何年間も作品らしいものも書けずにいたようなことも、先生の目には又もや女がそこで足をとられた姿として、いくらか薄ら苦く映ったのではなかったろうか。将来についても現実的に白紙の気持を抱かれたと思う。
 それはまことに尤もなのだし、本人として外側から及ぼすどんな力も願ってはいなかったのだけれども、それでも先生の聰明な如才なさのうちに閃くように自身の未来を空白《ブランク》として感じとることは苦しかった。もしそれでいいのなら、こんなに※[#「※」は「足へん+宛」、第3水準1−92−36、654−1]《もが》きはしないのに。そう思えた。私は何とかして、一個の人間がそこに生きたという事実を自分としてうけがえる生活を、うち立てたかったのであった。
 近代日本文学の黎明とともに生い立ったような先生といて、私
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