私の会ったゴーリキイ
宮本百合子
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(例)[#地付き]〔一九三六年八月〕
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私がマクシム・ゴーリキイに会ったのは、ちょうど今から足かけ八年前の一九二八年の初夏のことであった。
知られているとおりにゴーリキイは一九二三年にその頃まだ生きていたレーニンのすすめによって、持病の肺病の療養のためにイタリーへ行ってそこで暮らしていた。
五年ぶりでゴーリキイがソヴェトへ帰ってくる。このことはソヴェト同盟の大衆にとって一つの大きい興味と感動の中心であった。五年の間に非常なテムポですすめられたソヴェト同盟の社会的建設の成果を、文学的・文化的前進の姿をこの馴染みふかい大衆からの作家であるゴーリキイは何とみるであろうか。
ゴーリキイが帰ってくるということがきまった春、モスクワ、レーニングラードその他の主な都会では特別にゴーリキイ歓迎のための展覧会をひらいた。それには当時のラップをはじめ、アカデミーの文学部、人民文化委員会の芸術部等が共同的に参加して、まことに有益な催しをもった。
ゴーリキイの原稿、それから一九〇五年にゴーリキイが宣伝文をかいたというために検挙されたペテロパヴロフスクの要塞監獄の監房の写真、さらにトルストイやチェホフなどとあつまっている記念写真、レーニンと西洋将棋をさしている写真など興味ふかいものが並べられた。
この展覧会で私の心をうった一つのことは、ゴーリキイの幼年及び少年時代の写真というものが一枚もなかったことである。レーニンの三つくらいの時の愛らしい写真はソヴェト同盟の幼稚園の壁にかけられている。しかしゴーリキイは一枚も子供時代の写真をもっていない。つまり写真なんか撮ってもらわなかったそういう幼年・少年時代が伝記的な作品「幼年時代」「人々の中」「主人」「私の大学」等に描かれているのであるが、この写真のないことでも幼いゴーリキイが子供心にそれと闘いつつ成長してきた野蛮な暗い愛情のない環境が想像されるのであった。
この展覧会はロシアの若い人々の間にどの作家がもっとも多く愛読されているかという統計をかかげていた。外国の作家で一番愛読されていたのはジャック・ロンドンであったと思うが、ロシアの古典作家ではトルストイ、現代作家ではゴーリキイが最高であった。
ゴーリキイが困難な生活の間からこの人生に対してさまざまな深い印象をうけ、どうしてもそれを語りたい心持ちをおさえられなく小説をかき始めたのは、かれの二十三の歳であった。以来三十有余年の間にゴーリキイの作品は世界の人々に読まれ、また次から次へと新しく成長して文化の担い手となってくる若い人々にこの社会の発展の可能性を信ずる心と、屈辱とたたかってゆく勇気とを与えているのであった。
ゴーリキイがイタリーからモスクワへついた時、あまりのまごころからの歓迎に感動して、暫くは挨拶の言葉も出ず、殆んど涙をおとすほどであったということは誰知らぬものもない。
モスクワはもちろん南ロシアの方までも巡遊した後、ゴーリキイはレーニングラードへやってきた。かれが宿ったヨーロッパ・ホテルにちょうど私も泊りあわせた。だいたい私は名士訪問ということはきらいであるが、このゴーリキイにだけは会ってみたかった。
そこで小さい紙片に下手なロシア語で、一人の日本婦人作家があなたに面会したいと思うが時間はあるだろうか、若し会ってくれるのなら都合のよい時間を教えてくれとかいてやった。ゴーリキイは簡単に明日九時頃に待っていると答えてよこした。
その時間に私はゴーリキイの宿っていた部屋の扉を叩いた。窓の二つあるさっぱりしたその室内には何も特別なものがなく、ただ私より先にきた誰かと話しながら食べて、そのままそこに忘れられているようなトーストが一ときれ皿にのってそこのテーブルにある、それが印象にのこった。
隣りの部屋から息子と一緒にゴーリキイが出てきた。実に背の高い肩幅のひろい年寄り。写真でなじみのあるあの髭、薄いねずみいろのフランネルのシャツ、その上に楽に羽織られているやっぱり灰色のような単純な上衣。握手した手は温かく大きく、そしていかにもさっぱりしている。私は、これは日向の立派な樅の木だ、とそういう感じに打たれた。
私たちは簡単にソヴェトの文学のこと、日本の文学のことなどを話し、私はピリニャークが日本にきて後かいた「日本印象記」のことについて短い感想を述べた。つまりピリニャークの文章は気取っていて面白いかも知れないが、日本という国の実際はあれには描かれていないし、女である私からみればピリニャークが芸妓というものを他のヨーロッパの作家でもそう思うであろうように、大変幻想的な美しさにみちたものとしてかいている点は
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