、ソヴェトの作家として不満を感じるといった。
 何しろそのころの私のロシア語でそれをいうのであるからゴーリキイとしても要点をつかむのに困っただろうが、彼は持ち前の注意ぶかさ、老年になってもちっとも衰えることのない集注的な眼つきで私の話をきき、フムフムとうなずき、私があなたはピリニャークをどう思うかと訊いた時、彼は全く素朴な、しかもきわめて痛切な表情でもって、たった二た言、
「ふーン、あれか」
というような意味の言葉をいい、それだけで決定的な評価が感じられるようないい方をした。決して個人的な軽蔑をしめしているのではないが、ながい階級的な文学的な訓練によって鍛えられた一箇の大きい人格がはっきりこの世の中に現われてくる才能の大きさ、誠実さを洞察している明徹な力をその言葉に感じたのであった。
 なお日本の話が出て、ゴーリキイは私に、日本では婦人が自由に本を出版することが出来るのかときいた。私はそれは出来ると答えて、なぜそのことを訊ねたかということを逆に問い返した。
 ゴーリキイは、ムッソリーニは婦人に出版権を与えていない。婦人の作家たちはイタリーで本を出す時、夫或いは父親、その他の法律上の親権者に許可を求めてやっと本を出すということを説明し、「かの女らは美しいイタリーの空の下で、そういう生活をしている」といった。
 私が会って話した時間はたかだか一時間に充たず、それはゴーリキイの生涯にとって或いは殆ど間もなく忘れられたような瞬間であり、私の一生にとっても時間的にはまことに短い一刻であった。しかし、彼の風貌が直接私にあたえた深い信頼の感じ、さまざまな歴史の断面をつねに変らぬ努力と誠実さとをもって生きぬいて今日に至っている一箇の人間的チャムピオンの感銘は、終生私の心から消えることがないであろう。
 昔から偉大な作家の例としてひかれるのは、シェークスピアであり、ゲエテである。しかし、シェークスピアは或る時代あれだけの演劇的活動をやったが、彼を贔屓にしたエリザベス女王が亡くなると、前から心がけよくためておいた貯金と土地と家とをもって、昔かれが若く貧乏であった時、領主の鹿を売ったということでいたたまらなくした故郷の村に帰って、楽隠居の生涯をおくった。またゲエテはあれほどの大きな才能の所有者であったが、晩年はフランス革命に対してそれを嘲笑する詩をかいた。
 だが、ゴーリキイはこれらの人々とは全くちがう晩年をおくった。かれが一九三二年の文学生活四十年祝祭を記念として、ついに大衆の党の組織に結びつけられたこと、それから後の四年間にゴーリキイがおこなった文化・文学的活動のひろいこと、確信にみちていること、若々しい新社会への期待と愛に輝いていることはどうであろう!
 ゴーリキイはシェークスピア、ゲエテなどと決定的にその本質を異にした完成をとげた。一八九〇年代のロシア文壇に初めて大衆の中に蔵されている人間的精力、文学的能力の可能性の強大さを印象づけながら立ちあらわれたゴーリキイは重苦しい反動時代、かれにとっていろいろの点で理解が困難な点をもふくんでいた「一九一七年」等を経て、どこまでも大衆の発展・建設とともに自分を拡大し、晩年のゴーリキイはまったく大衆の最も尊敬すべき代弁者となった。
 かれの才能はかつてその個人的な豊富さで世界に注意を促したが、晩年のゴーリキイはソヴェト同盟という歴史に新たな人類の社会的地盤の上において、個人的才能というものが如何ほどの社会性・国際性において実りうるものであるかという典型をしめした。これは、文学の世界においてゴーリキイによって始めて達せられた輝かしい見本である。
 ゴーリキイの文学的成果は非常に豊富である。一九三二年前後に邦訳で出版された全集だけでも二十四冊あり、なおその後の文学的活動は更に数冊の本となって現われるであろうと思う。彼から学ぶべきことは非常に多い。中でも彼の全生涯を回顧してわれわれに大きい暗示を与えると思うのは、彼の初期の作品に現われていた誰知らぬものもないロマンティックな要素と、それの発展の過程である。
 ゴーリキイが沢山かいている自伝的要素の多い諸作品でよくわかるように、ゴーリキイがものごころついてから一九〇一年頃に至るまでの期間は、彼にとって実に苦しい、まだ方向のはっきりきまらない闘争の時代であった。生れつき屈辱に対して敏感であり、人間生活の明るさ美しさをもとめていた若いゴーリキイが現実生活の中で日夜自分の周囲にみるのは当時のロシアの民衆がおかれていた無智と泥酔と、おびただしい才能の浪費とであった。
 彼はそれらのものとその性根において妥協することが出来なかった。また或る種の人々のように工合よく屈辱に自分を馴らすために物わかりのよい人間に自分を作りなおすことも出来なかった。さりとて当時の若いゴーリキイに
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