は一人の青年としてすぐ周囲の環境を変更するだけの力のなかったことは当然である。高まろうとする心、よりよい生活に向おうとする情熱は、それかといって眠らされてはいない。
 そこでゴーリキイは自分の描く作品の中に、いろいろな人物の性格の中に、苦痛でおしまげられず日常の狭苦しい平安のためにあくせくすることを軽蔑する心、人類に約束されている偉大なことに憧れる心持ちを歌ったのであった。
 ゴーリキイのロマンティシズムというものはその社会的な発生において、以上のような性質をもっていた。ゴーリキイは後年自分のその時代の作品及び創作の態度を追懐して、
「あの時分、私はこの堪えがたい人生の苦痛について、せめてそれを輝かしい調子でもの語ろうとした。私は愚痴をいうのがきらいだった」
という意味のことをいっている。当時にあってゴーリキイが周囲の重圧と闘い、内心の火を守り、自分を腐らせないためには、彼の旺んな生活力から生じるロマンティシズムが必要であった。若しゴーリキイが自分の心の中におさえることの出来ない情熱を、全人類的なよりよい生活への希望、その達成のために努力する意志と結合させなかったならば、作家としてゴーリキイは単なる一箇のロマンティストであり、或いは色彩豊富ではあるが、われわれを教える何ものをも持たない一人の大言壮語する饒舌な作家として、やがて忘れられただけであったろう。
 ゴーリキイをここから救ったのは彼の溢れるような文学的才能を常に正しい道にひきとめ、それを押しすすめた独特の正直さ、現実をあるがままに勇気をもって直視する能力であった。その力によってゴーリキイはながい歴史の波瀾の間に自分自身の結合せらるべき意志はどういうところにあるかということを理解した。
 この力によってゴーリキイは若い時代に彼の血を清く保つ力となっていた自身のロマンティシズムを、歴史のもっとも積極的な現実の可能性をはっきり見透し、そのために献身的な努力を惜しまないという点で、翼を持たぬ日常主義者には或いはロマンティックであるといわれるかも知れぬ一つの力に融合させたのであった。
 今日のような時代に生きるわれわれにとってゴーリキイの歩んだこの道は無限の含蓄をもっている。ゴーリキイが若い労働者の文学志望者に与える言葉の中に「私はロマンティシズムを支持する、しかし、ロマンティシズムに対して極めて本質的な条件つきのもとに」という意味のことをいっているのは以上の消息を語るものであると思う。
 また、なぜ彼が小説をかくようになったかという問いに対してこう答えている。
「困難な生活は多くの印象を私に与えた。私はそれを語らずにはいられなかったのだ」と。
 彼は自分のところへ作家志願の希望をのべて寄越した二つの手紙をわれわれに比べてみせ、それを批判している。一人の労働者はこういう意味をかいた。
「ああ、実に私の生活はくさくさします、せめて小説でも書かねばいられません、私は作家になりたいのです」
 ところで、もう一人の労働者からの手紙は以下のようなものであった。
「親愛なゴーリキイ、私は自分の過去において経験したさまざまの闘争、その間に得た印象について小説をかきたいという心持ちを制することが出来ません」
 ゴーリキイがこの二つの作家志望の動機のどちらを、健康なものとみとめているかということは、説明を要しないであろう。文学は現実からの逃避ではないのである。ゴーリキイはこういった。
「文学は神々さえも創造したところの人類への奉仕である」そして作家として「一番大切なことは錯雑した歴史の事件の中に自分自らを見出し、そして全人類的なもの、善なるものを創造しつつある意志に自分の意志を結合させ、人生の意義をその中に含むこの偉大な創造に障害を与えている意志に対立することである」と。[#地付き]〔一九三六年八月〕



底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年12月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
   1952(昭和27)年10月発行
初出:「文学案内」
   1936(昭和11)年8月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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