着手してゆくことを不可能とすることである。一握りの婦人代議士が、議会の中でどのようなよい計画を提案したところで、其を実現する上から下までの行政機構がこれまで通り、封建性と官僚気質でかためられているとしたら、どれほどの実益をもたらすことが出来るだろう。或る意味よりいえば、我々の生活に直接つながっている種々の行政機構の民主化こそ、生活改善のためには重要である。真面目で善意あるどっさりの婦人たちが、こまごまとした行政機構に参加して、日頃の要求を実現することこそ重要である。公民権についての政府の沈黙は政策の上の矛盾というよりも寧ろ偽瞞に近いと考えられても弁解の余地はなかろうと思う。
幣原内閣の無策と不誠意とは、既に人民のあらゆる層より批判されている。財閥解体という身ぶりをしても真実にはあらゆる方法をつくして大財閥の利益を守るために熱中している幣原内閣を信頼している者はいないのである。このように、すべての課題をときかねて今にも政権の橋よりすべり落ちそうに見える現政府が、あれやこれやと身をかわしながら、今日なお権力を保っているのは、どういう仕組みなのであろうか。この答は、簡単である。日本社会機構の内部にはまだまだおびただしい反動の勢力が、千変万化して生きながらえているからである。
幸福は誰の手によって
さて総選挙は来る四月十日と公表された。有権者総数は三九、〇八〇、九九〇人である。今年はじめて登場した婦人有権者は二〇、九一七、五九三名であり、その残りの一八、一六三、三九七名が男子有権者である。これをみると婦人有権者の数は一割以上多い。私達婦人の一票が、明るい民主日本の将来のために、人民全体のよろこびのために、どれだけ大事な意味をもっているかということを、私たちは真心をもって理解しなければならないと思う。
日本の婦人の生活の有様は、どうであったろう。そして、今日、どうであろう。それは、くわしすぎるほど、これまでに触れて来たとおりである。民主の社会では、婦人だけの問題、婦人だけで処理しなければならない問題というものを持たない。社会を作っている半分の人々の悲しみ、困難は、はっきりその社会全体の幸福と不幸とにかかわることとして、男女共通の問題として解決されようとするのである。
半ば封建的であったこれまでの日本で、いわゆる婦人問題が、どう扱われて来たかということを思い返せば、私たちは、深くこの事実をうなずくであろうと思う。例えば、明治三十三年に出来た治安警察法第五条を撤廃させようとして、どれほど歴代の婦人解放運動家たちは努力して来たことだろう。せめて婦人が政治演説なりともきかれるように、と、何度、この悪法撤廃の請願が議会に提出されただろう。しかし、それは決して実現しなかった。婦人解放運動家に対して、同性である婦人たちが、一種軽蔑と懐疑の眼を向けるほど、それらの人々の努力は無視されたのであった。ところが、歴史は推移して、昨一九四五年十月、日本の支配者たちは、人民に対する敗北の一つの大きいしるしとして、治安維持法を撤廃せざるを得なくなった。世界に類のないこの自由圧迫の根本的な悪法が撤廃された時、婦人に対して政治的自由を束縛して来た治安警察法の運命はどうなったであろう。
ここに極めて意義深い教訓があると思う。くりかえし味うべき実例があると思う。
ポツダム宣言を受諾しても、日本の現支配者たちは、決して正直に日本を民主化しようとはしていない。民主化した日本で、これまで自分たちがたのしんで来た特権を失うことを厭っている。この人々にとって、愛すべきものは日本でもなければ、日本の人民でもない。自身の安逸だけである。その事実を日夜目撃し、私たちの日々をその犠牲としていることはすべての人民にとってもはや忍び難い苦痛である。
日本を民主化し平和の建設を一刻も早く成就させ、日本の人民は己れの祖国を復活させる丈の力量と理性とをもつものであることを世界に示すことは、私たちの強い念願であると思う。
今日、民主日本の甦りのために、あらゆる人々が、民主戦線に結集して、封建性と反動性とを排除するために闘うということは、真心からなる一個の救国運動である。一党派の問題でもなければ、ましてや、時節柄という形容詞をつけられるような種類のことではない。
政府が無能であるとき、破局を救う何の実力ももたないとき、私たち人民は自らを救わなければならない。自らを救うことによって、愛する祖国を、人民のものとして生きかえらせなければならないのである。
こういう重大な意味をもつ日本の民主戦線の動きに対して、自由党が参加せず、と明言したことは私たちの鋭い批判を呼び醒したと思う。進歩党、自由党、日本社会党の一部の人はいずれも天皇制護持ということを唯一の旗じるしとしている。何故に、此等の人々の主張とその主張の固執とがあるのであろう。もし真に日本を愛するのがその論拠であるならば、愛する日本のあらゆる必要に応えて、誠心誠意動くことこそ本来の道ではなかろうか。現実はこのように切実に、社会生活全般に亙る人民管理の必然に迫られている。それだのに、何故、この人々にとって人民戦線はいらない、邪魔なことなのであろう。この人々の利益は、保守と封建と独占された富とを否定する民主化された日本の火にはならない。彼等の護持する本体は、自身の特権である。これに反して、私たち日本の七千万男女人民の生存の保証は、民主日本のより合理的な社会建設のうちにしか見出されないのである。
フランスの婦人達は、今度初めて参政権を得た。そして三十二名の婦人代議士を選出した。その代議士の大部分が、この度の大戦による未亡人であるということは、婦人と政治の問題について、深く考えさせるところがあると思う。喪服を着て立ったフランスの婦人代議士たちは、その胸の中にどんな希いを持っているのだろう。彼女たちの希望はよくわかる。地球上のあらゆる女性の真情と、沈着公正な精神を持つあらゆる雄々しい男性の希望とをこめて、二度と戦争なき世界を創ろうとする熱意に充ちているのである。第一次大戦、第二次大戦を凌いで来た、フランスの女性たちは婦人として最大の苦痛の中から起ち上って、自分達の新しいフランス人民の光栄のために平和のにない手として働こうとしている。その姿には感動させるものがある。
地球を血みどろにした第二次世界大戦が終ったとき、ローマ法王が、世界に向ってラジオ放送をした。彼は、全世界の婦人によびかけた。世界の婦人達よ、一人残らず起って政治運動をしなければならない。再びあなた方の家庭、夫と兄弟と息子達とを奪って、殺す戦争が絶対にない社会をつくるために、婦人達よ政治運動を起さなければならない、と。このことは私達の真心にも触れる言葉である。
日本に新らしく参政権を得た二千余万の婦人のうち、何十万人が、良人を失った妻であるだろう。その何万人が、息子を失った母であり、兄と弟とを失った女性であろうか。父を失ったあらゆる子供たちの将来の安寧と幸福を築き守るものは、共通の涙と奮起する心とを知り合っている婦人たちの実行ばかりである。
婦人参政権の問題がおこってより、お互によくこういう批評をきいた。日本の婦人は、実に自覚がなくて、自分たちの参政権さえも却って厄介がっている。参政権などよりも、やすい藷の方がよっぽど欲しいといっていると。
けれども、果して、それが今日の現実であろうか。
成程、新聞にあらわれた輿論調査などを見ると若い女性たちは、現在立候補している婦人候補者達に多くのことを期待しないとはっきり断言している。これは、寧ろ当然なことであると思う。少くとも、今日、潔白に、まともに日々を暮している人々は、現実の破局的な困難を痛感している。この歴史的難局を切りぬけるためには、各自の一票に極めて大きい責任がかかっていることを知っている。女のことを一番よく知っているのは女だから、という言葉の綾で生存の課題が解かれないことは、本能的に理解されているのである。女だから女へ、というような政治を思うよりは、幸、今日の日本の女性は現実に醒めているのである。
家庭婦人たちが、参政権よりも藷を、というこころもちのうちに、しずかに入って行ってみれば、そこは決してただの無自覚といいきれない、「政治」への批判が言葉にいいあらわされないで澱んでいるのだと感じられる。これまでの「政治」は、私たち人民の眼にも届かないどこかで、見たこともない一握りの人々によって運営されて来た。その「政治」から今日私たちの現実にもたらされているものはかかる結果である。政治なんかに用はない、と憤りをひそめた家庭婦人の捨台詞《すてぜりふ》こそ、どんなに、これまでの「政治」に私たち全人民が見切りをつけているかということの端的なあらわれであると思う。本当に、私たちにとって、これまでの政治は一つも用がなくなっているのである。
これまでの政治に用はない、と背を向けている二千万の婦人が、では、自分たちの毎日の辛苦から脱け出たいと思っていないというのだろうか。それこそ全く反対である。どんなに主婦たちは、人間が生きるに足るだけの食糧の配給を願っていることだろう。出征して再び還ることのなかった良人をもつ妻たちは、どんなに、自分たちの不安が社会全体の連帯保証によって守られ、自分が安心して助ける場面と、安心して遺児たちを育て終せる条件とを求めているだろう。戦災者・復員者たちは、日を経るにつれて骨肉を噛む生活破壊の苦痛を味っている。
男女の学生は、せめて一日も早く教科書をもって、空腹でなく勉強したいと切望している。
日本じゅうの農村に、様々の形で、自主的な農民の組織が出来て、粒々辛苦の収穫物を、怪しげな官制農業会の手を経ずに、直接消費者に渡そうとしているのは当然である。
工場の労働者が、今日企業家の行っているサボタージュに反して、生産を管理しより多く、よりよく生産して、人民の生活必需品を作り出し、農村の生産必需品を、少しでも多く送ろうとしていることも肯ける。工場の人々がゴム長靴から硫安までを熱心に増産しようとしているこころもちは、私たち市民消費者が、すべての配給機構や町会を自主化させ民主化させていろいろの組合を管理して横流しを防ごうとしている努力と全く結び合ったものである。
家庭の婦人が、一つでも配給をましにしようと思えば、謂わば藷一つも必要なだけ欲しいと思うならば、それはとりも直さず、藷が道理に叶った筋を辿って、村から各自の台所へと運ばれ得る条件を自分たちで作らなければならないということに帰着する。これこそ、私たち人民が、人民の生活の向上のために骨折るに価する政治ではなかろうか。
去る二月十六日午後から、日本にはインフレーション防止非常措置として、モラトリアムがしかれた。瀕死の病人の体温表をみると、脈搏の数は益々多く、高く高くと青線は下から昇りつめるのに、体温は、命数のつきるにしたがって、低く低くと衰えて来て、終に十の字に、ぶっちがえになる。医者は、これを致命的危険のシムボルとするのである。人民の貯蓄は、昨年末から、大干潮のように減少しつづけた。反対に、物価は、上へ、上へと、のぼりつめて、二本の線を、もすこしのばせば、其は完全な十の字となってぶっちがうところ迄来た。モラトリアムをしくしか、政府のうつべき手はなかったのである。
けれども、モラトリアムの噂がひろがり、それが実現したニュースをきいたとき、私たちのこころには、数々の疑問が生じた。
モラトリアムをしかなければならなくなる迄に、政府は、どんなことをして来たか。疑問というのはこのことなのである。
さきにふれたように、政府はインフレーション防止という名目で、戦時利得税、財産税を公表したりした。しかし実行に着手しないで、時を過して来た。この間に、財閥、金もちたちは、十分脱税の方法と、財産隠匿をする時間を与えられた。事実、この税案が公表されてから後、それらの人々の濫費のために、目に見えて物価は高くなり、インフレーションは増大したのであった。
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