題になって来ていた。ところが最近数年の間には、全く逆の状態が現われた。つい先達てまで日本の農民は平均一戸当り一万円近い現金を保有しているということが報ぜられている。それで農村婦人の生活は、本質的に幸福になっているのだろうか。都会の勤労婦人に比べて、農村の婦人は食物は豊富であろうし、焚物も豊富であろうし、物と交換でなければ野菜一つ売らない習慣が出来ているから、おそらくは物にも不自由することが少いであろう。けれども、農村からどっさり前線に送られている男達は、まだ何百万と還って来ていない。夥しい戦死者がある。戦災を被った都会からの転出者との生活上の摩擦、昨今の供出の難かしい問題など、それは農村の封建的な土地との関係、家族の関係などを引くるめて、決して農村婦人の生活を、これまでよりも負担の軽い、楽しい明るいものとはしていないのである。
 昭和二十年の始まりから、日本は猛烈な空襲を受けるようになった。大都会という大都会が被害を被り、多くの小都市が焼かれ、村々も軍事施設の余波を被って思いもかけない被害を受けた。この頃から軍需生産が急に能率を低めてきたと共に物価が上り始めた。昭和十六年以来昂まって来ているインフレーションは、表面上の労働賃銀をぐんぐん上げて、その頃までは物価の昂騰と労働賃銀の増大とはほぼ釣り合いを保って上向きに来たのであった。けれども、この頃を境として生活費の膨脹は熱病患者の体温計のように止めようとしても止まらない力で上昇した。しかし、労働賃銀というものはあらゆる場合に、物価高に追付くことは不可能であるから、二つの間の開きは破局的に大きくなって来た。このようにして総ての基本的な面で人民の生活が破綻し始めるにつれて、政府はそれに対する真実の対策を立て得ないから、ひたすら威かしつけることで戦争を遂行し表面の統一を保とうとして来た。一つの政権が、社会に対して現実の政策を失って、警察、憲兵の力で人民を沈黙させているという状態に立到った時は、もうそれは、支配的権力として存在する価値を失っている証拠である。例えば母親が落ちついて道理に従って子供を訓戒することができる間は、子供は母親の言うことも聴くし、親であるという尊敬も持つことが出来る。けれども子供に道理がある場合、母親がそれを静かに聴くことも出来なくなっていて、いきなり気に入らないことを一言言えばもう殴るという状態になった時、子供はそれを尊敬する母親と思えるだろうか。子供がそれを軽蔑するのは当然といわなければならない。国家権力というものもそれと同じではないだろうか。大本営報道が総て嘘であったということは、心から私共を悲しませ、又憤らせる。その偽りの報道のために人民は自分の最も愛する者を殺された。殺されることについて沈黙を守って来た。嘘で塗り固めた権力と表面の統一のもとに国内生活は恐ろしい破綻を孕み、戦局は一刻一刻と敗退の途を辿りながら昭和二十年の夏が来たのであった。

        終って

 一九四五年(昭和二十年)八月十五日。日本は無条件降伏をもって太平洋戦争を終結した。ポツダム宣言は受諾された。そして、日本の人民は初めて、これまでの長い封建的軍事的な専制政治の本体をむき出しに自身の前に眺めた。人民が人民のために、人民の政治を行う民主化の方向に新しい出発の一歩を印することとなったのである。
 今や、私たち日本の人民は、自分たちの払った犠牲の全貌について、やっとその真実の幾部分かずつを知りはじめた。
[#ここから2字下げ]
太平洋戦争において陸軍関係の人的損耗、四九万六千人
海軍関係人的損耗、六六万二〇七九人
太平洋戦争開始以来一般空襲被害概況
[#ここから4字下げ]
死者       二四一、三〇九名
負傷者      三一四、〇四一名
家屋全焼全壊 二、三三三、三八八戸
家屋半焼半壊   一一〇、九二八戸
罹災者    八、〇四五、〇九四名
[#ここで字下げ終わり]
 空襲被害の比較的大きくない府県は、僅に九府県にすぎない。四面海に囲まれた日本が、動く船として残しもった頓数は、海外にのこされた在留民・復員兵士の輸送にも事欠くばかりに僅かである。
 統計で見れば、平面的に見られる家屋の全焼全壊の指数、半焼半壊の指数を、生活の現実の中で、具体的に、即物的に数え直して見るなら、そこには全く生活の全破壊、混乱の内容が現れて来る。夜具一枚、布団一枚、皿小鉢から下駄一足、傘一本、バケツ一箇に至るまでの損耗がふくまれている。その荒廃の中に、何とかして再び生活を組立ててゆく私たちの努力、辛苦は、資材難、輸送難、すべて最悪の事情の下に、これらの数字が、何百倍になっても表し切れない辛苦を齎らしているのである。
 終戦と同時に、全軍隊の武装解除が行われた。軍需産業は直ちに閉鎖された。軍人は復員することになり、軍需産業に動員されていた五百五十万人の労務員は、殆んど全部が一旦は職場を失った。家々には、長い間待たれていた良人や父兄たちの姿が動くようになった。これは、辛棒に辛棒して来た婦人たちにとって、どんな喜びであったろう。前線、銃後の区別なく、互に互の命を気づかって暮していた家庭は、再び家庭らしいものを形づくることが出来るようになったと思われた。しかし、現実生活の隅々が落着いて目に映りはじめた時、婦人は男が還ったという喜び以上の、新しい驚愕と不安に、心づいたと思う。終戦直後、大きな軍需会社は即日職員の解雇をした。そして、一人当りいくらかの纏まった金を、解雇手当として与えた。軍人は部隊の解散に伴って沢山の資材を背負い出しもしたし、金も貰った。特に将校階級がトラックを使ってまで、軍の物資を分け取りしたことは輿論を激しく刺戟して、当時陸軍大臣が人民に謝罪をしたほどであった。残額は特殊預金とされたにしろ、戦災保険は五千円支払われた。解職手当、復員手当など、それぞれの家庭としては纏まった金が齎らされたであろう。けれども、これに対して、日常生計費は、日一日と高くなって、昭和十一年を百とすれば、二十年八月十五日は二千五百の指数を示して来た。二十五倍に物価は高騰した。これはマークの札束を鞄に入れて歩いて、街の乞食の小僧が「小父ちゃん一万マークお呉れよパンを買うんだから……」と言ったという一つ話が伝わっているドイツの大恐慌の七、八ヵ月以前の状態とほぼひとしい(『同盟世界週報』一三一六号参照)形を示している。最低二十五倍の物価の昂騰があるわけである。凡そ昨年の十二月までにたいていの家庭では、今までの貯金を使い尽し、復員手当、解職手当をも食込んでしまった。赤字は危険信号を鳴り響かせている。この赤字の中でどうして人々は生きているだろう。官庁などの月給は、今日の下駄一足、足袋一足に近い金額のまま据置かれた。特別の技能を持たず、収入の途を図れない人々が落ちて行くところは闇商売であり、賭博である。
 戦時中、あんなに「愛国心」に愬え「非常時の国民的良心」に愬え「新兵器としての婦人」を動員した戦争犯罪の支配者は、このようにして家庭から引離して集めた人々にどういう配慮をしただろう。次の実話は決して例外唯一の場合でなかった。
 或る大規模の軍需工場で、八月十五日即日傭員の解雇をした。平均五、六百円の金を貰ったところが、当時俄かの復員と輸送網の破壊されている状態から遠い地方から来ている娘達、遠い地方から徴用されて来ていた青年達は帰るに家はなし、汽車は利かない。況《ま》して海を隔てた土地から来ている人は乗って帰る船さえもなかった。工場側ではその事情に従って、十一月まではそれ迄のように寮で暮してよいという話合いをつけた。たいへん親切そうな待遇ぶりであった。しかしいざその生活が始まって見ると、様々な問題が起った。第一食事はその若い人々が、自弁で、外食券で、食べなければならない。外食券の食事が、どんな実質のものかということは、誰しも知っている。胃嚢は、つまるところ闇の食物で満たして行かなければならなかった。五、六百円の金が一皿五円のおでんを食べて、一山十円の蜜柑を食べて、何ヵ月もつというのだろう。男達は自然に博奕を始めた。女子従業員にしても、食物の事情に変りはない。これまでの過度の労働から俄かに働かない生活がはじまり気分は散漫荒廃して、正しい健康な慰安のない街々を歩きまわった。男よりはいずれ少いに決っていた解雇手当は、闇食いで減らされて行き、いつの間にやら集団的な売婬が始まった。その彼女達のある者は、故郷へ帰ったろう。或る者は、また違った職場で、若い娘らしい働きを見出したかも知れない。けれども、今日大都市が道徳的な苦痛として眺めている街の女の氾濫、その大部分が、見た眼にも全く素人である若い娘達の、生活に崩れた姿はどこから来ているのだろうか、これは決して簡単な道徳問題ではない。
 女子挺身隊は四十七万二千五百七十三人という夥しい数であった。挺身隊以外に動員された婦人労働者の数は驚くべき多数に上っていた。その人達が俄かに職場を失った。物価は高い。しかも、家庭の中心的な男子がまだ前線から帰らないか、或は復員しても今まで勤めていた軍需会社が解散していたり、新らしい職場は復員職員を消化し切れない程一ぱいになっていたりする。失業の形をとらない失業者は日本中に満ち溢れている。推定失業者の数は千三百二十四万人である。政府は「しかし復員軍人は旧職場に帰れるし、女子労働者の大部分は家庭に復帰するのであるから実際の失業者というものは四百三十万ぐらいのものである」といっている。私達はこの数字を心に留めて、さて昭和七、八年の世界恐慌の時に世界の失業者はどうであったかということを見較べて見よう。
 当時の世界の経済恐慌は未曾有の失業者を地球上に溢れさせたといわれている。総数は四千五百万の失業者があった。米国は百三十万、ドイツ六百万、イギリス四百万、日本四十七万であった。日本の四十七万という数字は前古未曾有のものであるとして非常に驚かれたのであったが、昨今のいわゆる実数というものは四百三十万になっている。十倍の失業者数である。
「女子労務者の大部分は家庭に復帰するのである」と言い切っているということは、何という厚顔な責任回避であろう。おのずから、殖える人数が楽しく生きて行けるだけの衣料と食物と燃料とが湧き出して来る家庭というような、魔法の小屋は、今日、日本のどこにもあり得ない。魔法の小屋でない「家庭」へ表口から帰された女子失業群が、溢れ出した裏口は、真直、街頭につづいているのである。
 新聞には強盗、追剥、怖しい記事が日毎に報告されなければならなくなって来た。復員軍人がそれらの犯罪を犯すということについて輿論が高くなって、宮内次官は「世間の眼が復員軍人に対して冷た過ぎる」と、さながら人民に現在の社会悪の責任があるかのような口振りである。けれども、静かに思いめぐらした時、これらの復員軍人が秩序を紊《みだ》す行動をする、その奥の奥の原因は果して何処にあるだろうか。この間、元特攻隊員が中心となって集団的な強盗をし、検挙された記事があった。そのとき、不幸な元特攻隊員が「俺達に義理も人情もあるもんか」と、押入った先で啖呵を切ったことが書いてあった。この言葉は短い。けれども、一個の人間として深い絶望のこころを示している。
 前線から帰った人から、最後まで残ったのは兵士であって、指揮官は飛行機で疾《と》うの昔に引揚げてしまっていたという話を、戦争が終ってからは屡々聞くようになった。そういうことは、この間までみんな秘密にされて来た。「戦陣訓」を書いた人物は、細君を離婚してまで、総理大臣として戦争犯罪者として掻き集めた財産を護ろうとした。軍人勅諭を日毎夜毎暗誦させて、それが出来ないとビンタを食わしていた将校たちは、遠い島々で、戦局が絶望になるとさまざまの口実をこしらえて飛行機で本国に逃げ帰った。そして戦功によって立身をした。「聖戦」といわれた戦争の本質は終って見れば虚偽の侵略戦争であった。銃後の生活は護られていて、家庭から離れる不安と苦痛とを耐えていた人々は、帰って来て、焼け
前へ 次へ
全12ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング