。若い彼女達にふさわしい青年達は、工場からも、会社からも、学校からも総て引抜かれて戦場へ送られつつある。婚約をしたり、或は結婚したばかりの人達でさえ、自分達の初々しい家庭生活を保つことは出来なかった。千人針を持って、電車の中や駅の前や勤務先などで縫って貰っている若い女性達は、その一つ一つの縫目にどんな想いを籠めていたことだろう。人間としてのさまざまの重い経験、苦痛と疑問とは、総ての家庭、総ての婦人、男子の心に等しく目覚めていたのであるけれども、それは、決して決して、言葉の上にも、行動の上にも、まして文字の上に、正直に表現されるということはなかった。日本の人民はそれほど無智であったのだろうか。それほど偽善的に生れているのだろうか。そうではない、種々様々戦時取締の規則を設けて、言論の自由は抑えられていた。出版に対する検閲は猛烈にやかましくて、何万種類出版物がふえようとも、それらの内容は全く、情報局編輯であるという点では、ただ一冊の本に過ぎないと同じであった。昭和二十年八月まで、日本の中には安心して口をきける場所というものがほとんどなかった。電車の中でも、風呂屋でも、買物の行列の中でも、いつも誰か姿のない看視人が人民の集るところには紛れ込んでいた。
「流言蜚語の取締り」は恐ろしく綿密であった。流言蜚語は、事実にないことを流布する一つの場合に当嵌められた言い方である。けれども、当時の日本の流言蜚語はその内容が違っていた。社会に対する正当の批評、希望もそれは取締られる「流言蜚語」の中に入れられた。そうしてうっかり買物のための行列に立っていると、陸軍のトラックがさっと走って来て、そうやって立っている時間があるなら洗濯でもしろと言って、婦人達を陸軍病院に連れて行くという人攫いめいたことも現実に行われた。憲兵の耳と捕縛する手というものは、殆ど人の集まるあらゆる処に張り繞《めぐ》らされた。雑誌という雑誌、本という本、演説という演説、それは総て人民の苦痛を抑えて、この戦争の「聖戦」であること、国民が辛抱すればこの戦争は必ず勝つこと、すべての責任は人民にある、ということを告げ知らせるためにだけ動員されたのであった。学校は、公平な歴史や、世界における日本の地位、科学を教えるところではなくなった。英語その他の外国語は優秀民族としての日本人に取っては必要でないとされて、中学校、女学校の科目から取除かれた。外国の市民の生活と日本の人民の生活とを比較するような機会は、戦争の必要としないことであったから、輸送とか、為替関係とかの名目によって、出版物の国際的な交換は禁止された。こういう状態の下に置かれた私どもが、どうして自分達がおかれた事情の法外さ、自分達の騙されている偽瞞と、最悪の社会条件を、客観的に理解して行くことが出来たろう。辛らければ辛い程、一日も早く戦争が終ることを希望した。若し戦争が勝たなければ終らないといわれるならば、早く勝って、早く終って欲しいと思う。勝つ迄は、と言われて、正直な日本の女性は自分の命までも犠牲に捧げたのであった。空襲によって、職場の傷害によって命を落した学徒や勤労婦人の数は決して少くない。不熟練でしかも熱心に長時間機械の前に立った時、職場の災害は非常に増大するのが当然である。しかし青少年工、女子労働者のために特別な危険防止の施設というものは考えられなかった。その暇がなかった。しかし暇のないことよりも最大の原因は、日本の政府が人民の命をどんなに消耗品の一つとしてしか見ていなかったかということにある。『主婦之友』の或る号を見るとはっきりと書かれている。「新兵器としての女子」と。
 第二次世界戦争で世界は数々の惨禍を経験した。けれども、その惨禍の中から、なお世界が驚いて日本の戦法を眺めたのは特攻隊に対してであった。僅か十六七の少年を英雄的な情熱に駆り立てて、いわゆる必殺の戦闘をさせた惨虐さは世界を驚かした。そういう非人間的な犠牲に堪えている日本の母の心持というものが、世界を驚かした。けれども、それは日本の母に涙がないのではなかった。その涙を社会の前に流して、その理非を愬えるだけの母としての当然の自由が日本にはなかった。日本の婦人が封建的な習慣をもっていて、自分の感情を披瀝することを憚ったり、道理を公然と主張することを遠慮したりする習慣も、戦時中女性の愛情からの声を抑える結果になって、それは戦争を遂行するためには実に有効に利用されたのであった。私達は日本の社会のそれほどに根深い封建性と、それに慣らされた、自分達女性が、愛を守る智慧さえもなく、女の命と言われる愛情への権利さえも放擲して来たことについて、涙をこぼすというよりももっと無念さを感じるのである。
 婦人の感情は、現実が苦しければ苦しい程、現実から離れて、前線にいる兵士達、或は若き空の勇士に対する憧憬、特攻隊の讚美の方向へと追いよせられた。女性のやさしさは、支配者によって、彼女たちの愛してやまぬ男たちを殺す刀に付ける虚偽の飾りとして利用されたのであった。キリストは神の名において戦争を合理化し熱心なキリスト教徒の女が、恥なく人間同士の殺戮に熱中した言葉を与えた。そのとおりに、日本の、「雄々しい女心」は、人民の破滅の方向へと、総て動員されて行ったのであった。小説から、和歌から、ふと眼に入るグラフまで、戦争を讚美しないものがあったろうか。今日になれば、それは全く嘘とわかった「皇軍の勝利」を描き出さないものがあったろうか。
 こうして、現実の敗北と架空な戦勝との不思議な絡《まと》い合せのまま時が経つうちに、その矛盾の間から、深刻な社会問題が生れて来た。大河内一男教授が帝大新聞に青少年の犯罪の増加について書かれたことがあった。国民学校の上級生から中学、専門学校に至るまで、学徒は動員されて工場に働いていたのであるけれども、不規律な工場の労働と、青少年の正しい娯楽設備のない社会の実情とは、急に金を持つようになった青少年達の生活を、決して健全にゆたかにすることは出来なかった。その頃、日本の総ての娯楽機関は戦時目的のために縮小して、映画さえも軍事映画しかないようになった。金を持って、緊張する程の職能教育も授けられず、学校もなくなってしまった青少年達は、非常な勢いで社会的な堕落に染まって行った。未成年者の喫煙、飲酒、買婬は驚く程のスピードで無垢な少年達の生活を崩して行った。その結果工場の資材を持出して売ること、そういうもののブローカーをすること、盗んだ資材で、例えばラジオを組立てたり、時計を一寸修繕したりして、それで又金を儲けること、窃盗や詐欺が大変に殖え始めた。世間の注目はこのようにして始まった青少年の生活破産に対して鋭くなり始めた。ところが、忽ちそういう真面目な社会的関心は新聞その他の面に現われなくなった。解決策も対策も輿論によって形づくられないうちに、この重大な社会問題は、揉消されて闇に葬られてしまった。ちらりと現われて、社会矛盾の深い波の蔭に圧し隠されてしまったこの現象は、私達に何を告げているだろう。
 繰返しくりかえし触れているように、この事実は日本の生産、経済の機構が薄弱であって、どんなに安い労働力、即ち婦人と青少年の労働に多く利潤を追って存在して来ているかという証拠である。明治社会の発達が、繊維工業によって、婦人の最大の犠牲の上に発展して来たのと並行して、日本の後れた工業は、半ば手工業的に、屋内労働的に小工場を日本中にばら撒いた。そこでは昔ながらの徒弟制度や、年期や、半封建的な青少年の労働条件が存在している。戦争が始まって、それらの小工場はみんな軍需生産の下請工場となった。急に生産を膨脹させると共に、労働の基本としたのはやはり賃銀の安い青少年労働者、そして婦人達であった。この青少年と女性の勤労を戦時的に利用する計画というものは、既に十数年前から着手されていた。大河内正敏は、今日戦争犯罪者として監禁されているが、彼が計画した「農村の工業化」の方式というものは、世界に類のない方法であった。最近まで日本の農村は知られている通りに一般には貧困であったし、文化の程度も後れさせられていた。理化学研究所長大河内正敏の計画は、軍需産業を都会に集中させて置くと被害を被るから、各地方に分散させようという表面の目的の外に、田舎の村の中に小さな作業所をどっさり拵えて、非常に簡単な分業を組織し、農村の婦人達がどんなに未熟練であっても、すぐその機械の操作を覚えて働いて、軍需生産の全国的な能率を上げて行くようにという計画であった。この計画について、私達婦人が当時も非常に驚いたことは、大河内は日本の農村における婦人達の世間知らず、忍耐力、従順を利用して、真面目に働かせることは有利であると、その著書の中に明言していることである。同時に大勢の労働人員を一つの工場の内に集めると、集団の力を恃《たの》んで近代的な労働者の自覚が出て来て、使う方としては不便になって来る。農村の村々に、切離して少しずつ女を働かして置けば、いつまで経っても、それらの勤労婦人達は、都会における工場の労働婦人のように団結することも知らないし、要求することも理解しない。その上、その労働に対する賃銀はそれぞれの「村の経済状態を混乱させないために」その村で女が内職をして得る賃銀に均しいものに止めて置くことが最上の方策であると言われたのであった。こういう婦人の労働力の搾取の方法は、おそらく、今日の世界に類のないものであったろうと思う。
 アメリカでも、ドイツでも、イタリーでも第二次の世界大戦においては大幅に婦人の力が動員された。特にイタリー、ドイツにおいては日本と同様に侵略戦争を始めた立場から婦人の労働というものは全く悲劇的に、人民生活の破綻のために追立てられたのであった。アメリカとソヴェトとイギリスと中国、連合国側の婦人の労働力は、同様に強度に動員されたとしても、戦争の本体が平和の防衛のためであったから、現実にさまざまの問題は持っているにしろ、彼女達の犠牲も究極においては平和の建設というはっきりした目標を持っていた。しかし、日本婦人の労働力は第一、そういう人間らしい目的を持っていなかったし、国内の封建的な、そして又資本主義的な二重の搾取の方法は、この大河内の農村の工業化のような方法をあらゆる部面にはびこらして、社会的に発言権の少い婦人と青少年との上に重くかかって来たのであった。
 農村の労働が男子出征に伴って、全く婦人の肩にかかったということは、説明する必要もない。女子青年が先に立って、婦人の馬耕競技会、草刈競技会、その他農業労働の重い部分を、どんなに女が成し遂げて行くかということを競争させられたし、農村における軍需食糧の供出は、又馬糧その他の供出は、都会に生活している婦人が察しもつかない程猛烈なものであった。農村では全く自分の家の梅の実さえも自分勝手に梅干に出来ないという状態で暮して来た。食糧の計画的生産、計画的配給は日本では手後れに計画されて、しかも各生産部門における能率低下の原因と反比例する増産の必要に追立てられた。男手を失った農村の婦人達が、割当だけの供出量を生産して軍需を充たし、なお自分のところへ幾らかの余剰を残すためには、肥料のない、馬のいなくなった、男のなくなった田畑の上で、骨が軋むばかりの辛苦を凌いで働きつづけて来たのであった。婦人達が燃料の欠乏、シャボンその他の洗剤の欠乏、繊維が悪くなって洗えもしないスフの製品が殖えたことなどで、毎日の婦人の仕事が一層困難になって来たと同じ時に、農村の婦人達が田圃で働く木綿着物がなくなった。手拭は足りなくなって来た。肥料・農具も足りない状態になって来た。実際生産用具はそのように欠乏に欠乏を重ねて来るのに、増産の必要は昂まるし、一方には正規の増産とその配給とを攪乱するような農業会、統制会、闇売買が横行して、農村では近年の一つの病的な社会現象として、物がないのに金はあるという状態になって来た。曾て日本の農村は一戸当り数百円の借金を持っているということが統計に言われて、農民の負債はいつも大きい社会問
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