波に攫われて、まだ人民のものとしての広い活動を展開していなかった。明治開化期以来、日本の民主主義の伝統とその指導力は根本から婦人の社会的地位を向上させるという大事業に成功し得ないまま絶えざる封建性との闘いのうちに今日まで来たのであった。
 明治開化期以後の婦人の文学的作品を見ると、その頃の婦人作家というものがどのように女の生活を見ていたかが非常によく分る。明治二十年代に三宅花圃が「藪の鶯」という小説を書いた。坪内逍遙が「当世書生気質」を発表した頃で、それに刺戟され、それを摸倣して書いた小説であり、当時流行の夜会や、アメリカ人や洋装をした紳士令嬢などが登場人物となっている。十八九歳だったこの才媛は、既に反動期に入った日本としての、女権拡張の立場に立って婦人問題を述べている。花圃の小説中最も愛らしく聰明な婦人と思われている女主人公は、日本の富国強兵の伴侶として、その内助者としての女性の生活を最も名誉あるものと結論しているのである。後年花圃の良人三宅雪嶺とその婿である中野正剛等が日本の文化における反動的な一つの元老として存在したことと考え併せると、極めて興味がある。
 樋口一葉の小説は、今なお多くの人々に愛せられているし、明治文学を眺め渡した時、婦人作家として彼女くらい完成した技術を持っていた人はなかった。しかし日清戦争前後に生活した一葉が描いている婦人の世界というものはどういうものであったろう。有名な「たけくらべ」は詩情に溢れた作品である。主人公達、少年少女としての朧ろな情感の境地は叙情的に、繊細に美しく描かれていて、独自な味いの作品である。そこに一貫しているものは稚い恋心と下町の情緒、吉原界隈の日常生活中の風情、その現実と夢とを綯《な》い合わせた風情である。
「にごりえ」の女主人公であるお力は酌婦である。けれども、生れは士族である。そのことを心の秘かな誇りとしている女である。が、男とのいきさつの痴情的な結末は、いわゆる士族という特権的な身分を自負する女性も酌婦に転落しなければならない社会であり、しかもその中で自分の運命を積極的に展開する能力をもたなくて、僅に勝気なお力であるに止り、遂に人の刃に命を落す物語が書かれている。一葉が、若い時代の藤村、その他『文学界』の同人達の間に移入されていた、ヨーロッパ風のロマンチシズムの雰囲気に刺戟されたことは、彼女の傑作「たけくらべ」を生む、つよい精神的モメントになった。彼女自身の持っている古風な封建風な潔癖さとも非常によく調和させ、「たけくらべ」という一つの珠玉が生れた。作品でない日記をよむと、一葉が生活と苦闘して、女が社会からうけている扱い、又女同士の間、文学の仲間たちにさえある貧富の懸隔とその心理などについてどんなに鋭く感じ、疑い、悩んでいるかがよくわかる。しかし、当時の彼女の「文学」という観念は、それらの人生課題をじかにとり上げさせず、作品として出たものは封建と新社会との敷居の上にたゆたって、定め難い薄明りの故にこそ一つの美しさを保っているという性質のものであった。
 平塚雷鳥を主唱者とした「青鞜社」の運動は、日本にイブセンとかエレン・ケイとか、婦人の解放を観念の面から取扱った思想が文芸運動として輸入された一九〇八年頃(明治四十一、二年)結成された。『青鞜』は文化運動としての女性の天才の発揮、限りない知的能力の発露ということを目標とした。けれども、根深い婦人の文化運動として永続することは不可能であった。青鞜社の人々の多くは、文化がどのような関係で経済的な社会上の基礎の上に発生するものであるかを知らなかった。経済的に自立する丈の能力を持たず、さりとて、社会的な勤労に従事したこともなかったそれらの婦人達が集まって、文化文学についての情熱を吐露し合ったとしても社会生活における根のなさ、経済的親がかりの事情は、彼女たちの現実の能力を制約した。観念の上で、どんなに純粋に天才を叫んでも、彼女達の現実はやはり紡績工場の女工のハナ子、トメ子が縛られていると全く同じ家族制度と、民法と刑法の中に棲息していた限り、彼女達の飛び立とうとした翼は歴史の中で十分に伸ばし得なかったのであった。
 この時代に『白樺』の人道主義運動も起った。『白樺』は人間の尊重、芸術の尊重、人間精神の尊重を主張した。『白樺』によって紹介されたヨーロッパの芸術家達、例えばトルストイ、ロダン、ロマン・ローラン、ホイットマンなどは何《いず》れも日本の文化に新しい息吹を吹込んだ。白樺運動の、当時まだ若かった武者小路実篤その他の人々は日本にとって一つの新しい魅するところある新鮮な力であった。けれども、そののち何年かを生き古した武者小路実篤が、今回の戦争中、どれ程無智な一人よがりの気持で戦争に協力したかということを見れば、社会的観察力の欠けた人道主義やその感激というものが、歴史変化に伴ってどんなに堕落し、いつともしらず全く非人間らしいものになるかということの、恐ろしい例を見ることが出来る。日本の人道主義者であった武者小路実篤が、今日そのように堕落したという悲劇は、彼が要するに華族の息子で、社会の現実の機構、そこにしっかりと結びついている人間の働き、それの客観的な意義を全然知らないで、曾て彼が書いた作品の題のように、「わしも知らない」ままに、文化的にも拭うことの出来ない人間的罪悪を犯した。私たち婦人は、悪よりも悪い無智というものを生活から追放しなければならない。沁々とそれを思わずにいられない。

        戦争の犠牲

 軍事的な日本の権力が満州を侵略し、中国を侵略し、大規模の侵略戦争を開始したのはいまから十四年前であった。一九四一年十二月、真珠湾の不意打攻撃を以て太平洋戦争に突入した。そして、一九四五年八月十五日無条件降伏を以てこの惨劇を終った。特に太平洋戦争が始まってから、我々日本の人民は、その戦争を大東亜戦争という名で呼ばされた。且つ「聖戦」と言い聞かされた。ところが敗戦してポツダム宣言を受諾した時、日本は連合諸国から戦争犯罪国として、対等の国際的自立性を奪われた。私達祖国を愛する者は、この戦争の結果を悲しい心で受取った。そして、或る人々はきっと思ったに違いない。昔から喧嘩両成敗という言葉がある。国際間の戦争にしても必ず相手はあるものを、なぜ日本にばかりに戦争犯罪国の責任が負わされるのであろうか。それは日本が敗けたから、勝った側から、勝った勢いでそのような道徳責任までを負わされるのではあるまいか、と。私達は自分たちが、自信をもって生き、明るい日本建設のために、新しい民主日本を形づくってゆくために、この疑問の感情を究明し、国際間における日本の戦争責任の意味を十分理解しなければならないと思う。さもなければ、誤った狭い民族意識に捉われ、その民族意識は反動者に巧に利用され、結果としては、私たちの手がやっと端緒についたばかりの民主政治を再びまき上げられてしまうことにもなりかねない。私たちはわが祖国を愛し守ることにおいて、聰明でなければならない。
 なぜ日本は第二次ヨーロッパ大戦において侵略戦争の責任者と判断されているだろうか。遡って考えると、二十八年前(一九一四―一九一八)の第一次ヨーロッパ大戦において、ヨーロッパ諸国及びアメリカは深刻極まる戦争の惨禍を経験している。ヨーロッパ資本主義間の利害の矛盾が、第一次大戦を起したことは誰の眼にも明瞭である。同時に、あれ程多くの血を流し、あれ程多くの人々の命を失い、国民生活を互に破滅させ合いながら、その結果としての国際連盟や軍備縮小会議などは平和建設の上に極めて薄弱な力しか持ち得ないことも、ヨーロッパの人々は発見していた。国際連盟が出来たと同時に、既に第二次世界戦争の危険は、総ての人に警戒されていたのであった。ヨーロッパの第一次大戦において経験された破壊を心から嘆き、戦争が非人道的な所業であることを心から恥じているヨーロッパの多くの進歩的な人々は、真面目に第二次大戦を防ごうとしていたし、あらゆる形、あらゆる会議、あらゆる力の均衡を発見する方法をつくして、危機に迫って来る第二次戦争を防ごうとしていた。その時に、ドイツのナチスとイタリーのファッシストと日本の侵略的支配者はヨーロッパのその矛盾、ヨーロッパ内部のその苦悩に乗じて、折あらばと漁夫の利を求めて、第一次大戦時代からちっとも本質の進歩していない侵略戦争を計画した。
 日本が満州に侵略を開始したのは、ヨーロッパが戦争を避けようとしてあらゆる努力を尽している、その忙しさの隙に乗じた仕事であった。ナチスがヒットラーの性格異常者的な独裁力によって国民に犠牲を払わせ、いわゆる電撃的侵略を開始し、イタリーもその驥尾に附した。平和に対する世界の努力を、暴力的に破壊させる切掛《きっかけ》を合図し合うための同盟を結んだ三国は、西に東に兇暴な力を揮い始めた。そしてヨーロッパが戦禍に陥った機会に乗じ、日本は更に手を伸ばして真珠湾、南洋諸島、東亜諸国に侵略を始めた。
 人が重い病気に罹った時、それを癒すために協力するのが人間らしい仕業であろう。或は、その病気を一層重くさせ一層余病を併発させ、命を危くさせようとあらゆる手段を尽すのが、人道の行為であろうか。これに対する答えは子供でも知っている。日本その他二つの同盟国が、国際間に取った所業は、真剣な平和建設の努力を横紙破りの暴力で破壊し、世界を混乱に導いたという意味で決して正義の行動ではなかった。道徳的責任を十分に問われるべき立場にある。日本が戦争侵略責任国として国際的処罰を受けるのは避け難いことである。それというのは、第一次ヨーロッパ大戦において、日本の財閥と軍閥とは儲けこそしたが痛手というような痛切な経験は一つもしていない。折を見て、連合国側にちょいと参加して、南洋の旧ドイツ領の委任統治地を稼いだし、青島に日本名で町名をつけることに成功したりした。人民の生命に責任を感じない彼等は近代戦争の惨劇というものを根柢から理解していなかった。三十年四十年と後れた平面的な戦争技術と戦術と生産能力への無智、世界情勢への無判断のまま、この大戦争に突入した。世界的な理解を持っているために戦争参加を危うがった政治家、銀行家、その他は二・二六事件という暗殺事件によって、生命を奪われているのである。
 ところで、この頃よく、日本は強盗戦争をした、といわれる。それをきいたとき、私たちの心もちは、どうしてもそれをうけ入れかねる。自分たちは、一つも強盗戦争なんかしなかった、という反対の心持がする。ここが、非常に重大なところだと思う。本当に、私たち七千万人の日本の人民は「いくさ」をした者であったのだろうか。私共総てが、愧《は》ずべき戦争犯罪者であるのだろうか。この点は十分考えてみなければならない。なぜかといえば、これ程大きな犠牲と、これ程大きな社会生活の破壊を齎した戦争を、いざ始めるという時、私達人民は当時の政府から民族の信仰的よりどころといわれる天皇から、どんな相談を受けただろう。どこに、どんな人民の大会が持たれたか。どの新聞が、世間の輿論を尋ねたか。真珠湾の攻撃が、十二月八日の朝突然発表されて、人々は驚いてアメリカとの戦争が始まったことを知った。全く不意打であった。人民としては、戦争をするのがよいとも、しないのがよいとも、アメリカが憎むべきか、憎むべきでないか、全然その判断にさえも招かれていない。全く侵略的な日本の支配者が独断で、人民に一言、一度の相談なく、天皇が宣戦詔勅を出して始めた戦争である。数百万の人が今度の戦争で命を失った。しかし、その人々は、言葉の正しい意味で自分達でした戦争で死んだのではなくて、不幸なその人達及び、私達人民一般は、させられた戦争に、理非をも云わせず引き出されたのであった。
 この事実を明瞭にしなければ、私達の今後の生活は、どんな新出発の足場をも見出すことが出来ないであろう。なぜなら、戦争の結果私共の日常生活はこのようにも破壊されている。特に婦人に取って、その生涯を託すべき処と明治以来教え込まれている家庭そのものが、
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