の生涯は、始めから終りまで不安定で、一旦藤原氏の機嫌をそこねたら、任官も覚束ない者が多かった。一年の始めに、任官発表がある毎に其々の一家の婦人達は喜び、歎きした。沢山の歌や日記の中に、そのときの思いが語られている。
荘園には、少女から老婆までの女がどっさり奴隷として働かされていた。藤原氏の貴婦人達が着ていた七重八重の唐衣、藤原氏の紳士達がたいへん温いものだと珍重して着た綿衣、それらは、皆荘園の女奴隷達の指先から生み出されたものなのであった。
藤原氏一族の貴女の生活は、そのように不安定な土台の上に絢爛と咲いていたが、当時の日本全国、或は京都の一般の庶民の女の生活というものはどんなであったのだろうか。第一、絵巻を見ても分るように、庶民の女は髪を藁※[#「禾へん+皆」、第4水準2−82−94]《わらしべ》や紙で結え、染色を使わない着物を着て、殆んど裸足で働いて暮した。そして京都の辻には行倒れが絶えず、女乞食が宮廷の庭へまで入って来るような極端な貧しさの中で文盲であった。紫式部達が物語を書き、支那の詩を扇にかいてさざめいていた時、これらの謙遜であるとも知らぬほど謙遜で勤勉な庶民の女達は、自
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