のであることは前に触れた。福沢諭吉は「学問のすゝめ」を見てもわかる通り、明治開化期における最も活動的な啓蒙家の一人であった。彼は明治になっても華族、士族、平民という身分制が残っていることを不満として、常に自分の著者に東京平民福沢諭吉と署名したくらい気概ある学者であった。この福沢諭吉が益軒の「女大学」を読んだのは、彼の二十代まだ明治以前のことであった。人間らしくない女性に対する態度に憤然として、彼は、長年に亙って極めて詳細な「女大学」反駁論を準備した。そして明治三十二年つまり日本に女学校令というものが出来た年になって、社会一般が婦人問題について漸く受容れる気風が出来たと認めて、始めて「新女大学」を発表した。
「新女大学」の中で、今日もなお注目されるべきことは、著者が、婦人を男子と等しい社会的成員として見てそのために婦人は法律上の知識、経済上の能力、科学的な物の見方というものを身に付けなければならないということを熱心に説いていることである。明治二十九年に制定された民法の女子に関する差別条項を恐らく福沢諭吉は深い感慨を以て見たことであろう。婦人は、法律に関する知識を持たなければ不幸であるとい
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