時、子供はそれを尊敬する母親と思えるだろうか。子供がそれを軽蔑するのは当然といわなければならない。国家権力というものもそれと同じではないだろうか。大本営報道が総て嘘であったということは、心から私共を悲しませ、又憤らせる。その偽りの報道のために人民は自分の最も愛する者を殺された。殺されることについて沈黙を守って来た。嘘で塗り固めた権力と表面の統一のもとに国内生活は恐ろしい破綻を孕み、戦局は一刻一刻と敗退の途を辿りながら昭和二十年の夏が来たのであった。

        終って

 一九四五年(昭和二十年)八月十五日。日本は無条件降伏をもって太平洋戦争を終結した。ポツダム宣言は受諾された。そして、日本の人民は初めて、これまでの長い封建的軍事的な専制政治の本体をむき出しに自身の前に眺めた。人民が人民のために、人民の政治を行う民主化の方向に新しい出発の一歩を印することとなったのである。
 今や、私たち日本の人民は、自分たちの払った犠牲の全貌について、やっとその真実の幾部分かずつを知りはじめた。
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太平洋戦争において陸軍関係の人的損耗、四九万六千人
海軍関係人的損耗、六六万二〇七九人
太平洋戦争開始以来一般空襲被害概況
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死者       二四一、三〇九名
負傷者      三一四、〇四一名
家屋全焼全壊 二、三三三、三八八戸
家屋半焼半壊   一一〇、九二八戸
罹災者    八、〇四五、〇九四名
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 空襲被害の比較的大きくない府県は、僅に九府県にすぎない。四面海に囲まれた日本が、動く船として残しもった頓数は、海外にのこされた在留民・復員兵士の輸送にも事欠くばかりに僅かである。
 統計で見れば、平面的に見られる家屋の全焼全壊の指数、半焼半壊の指数を、生活の現実の中で、具体的に、即物的に数え直して見るなら、そこには全く生活の全破壊、混乱の内容が現れて来る。夜具一枚、布団一枚、皿小鉢から下駄一足、傘一本、バケツ一箇に至るまでの損耗がふくまれている。その荒廃の中に、何とかして再び生活を組立ててゆく私たちの努力、辛苦は、資材難、輸送難、すべて最悪の事情の下に、これらの数字が、何百倍になっても表し切れない辛苦を齎らしているのである。
 終戦と同時に、全軍隊の武装解除が行われた。軍需産業は直ちに閉鎖された。軍人は復員することになり、軍需産業に動員されていた五百五十万人の労務員は、殆んど全部が一旦は職場を失った。家々には、長い間待たれていた良人や父兄たちの姿が動くようになった。これは、辛棒に辛棒して来た婦人たちにとって、どんな喜びであったろう。前線、銃後の区別なく、互に互の命を気づかって暮していた家庭は、再び家庭らしいものを形づくることが出来るようになったと思われた。しかし、現実生活の隅々が落着いて目に映りはじめた時、婦人は男が還ったという喜び以上の、新しい驚愕と不安に、心づいたと思う。終戦直後、大きな軍需会社は即日職員の解雇をした。そして、一人当りいくらかの纏まった金を、解雇手当として与えた。軍人は部隊の解散に伴って沢山の資材を背負い出しもしたし、金も貰った。特に将校階級がトラックを使ってまで、軍の物資を分け取りしたことは輿論を激しく刺戟して、当時陸軍大臣が人民に謝罪をしたほどであった。残額は特殊預金とされたにしろ、戦災保険は五千円支払われた。解職手当、復員手当など、それぞれの家庭としては纏まった金が齎らされたであろう。けれども、これに対して、日常生計費は、日一日と高くなって、昭和十一年を百とすれば、二十年八月十五日は二千五百の指数を示して来た。二十五倍に物価は高騰した。これはマークの札束を鞄に入れて歩いて、街の乞食の小僧が「小父ちゃん一万マークお呉れよパンを買うんだから……」と言ったという一つ話が伝わっているドイツの大恐慌の七、八ヵ月以前の状態とほぼひとしい(『同盟世界週報』一三一六号参照)形を示している。最低二十五倍の物価の昂騰があるわけである。凡そ昨年の十二月までにたいていの家庭では、今までの貯金を使い尽し、復員手当、解職手当をも食込んでしまった。赤字は危険信号を鳴り響かせている。この赤字の中でどうして人々は生きているだろう。官庁などの月給は、今日の下駄一足、足袋一足に近い金額のまま据置かれた。特別の技能を持たず、収入の途を図れない人々が落ちて行くところは闇商売であり、賭博である。
 戦時中、あんなに「愛国心」に愬え「非常時の国民的良心」に愬え「新兵器としての婦人」を動員した戦争犯罪の支配者は、このようにして家庭から引離して集めた人々にどういう配慮をしただろう。次の実話は決して例外唯一の場合でなかった。
 或る大規模の軍需工場で、八月十五日即日傭員の解雇をした。平均五、六百円
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