の金を貰ったところが、当時俄かの復員と輸送網の破壊されている状態から遠い地方から来ている娘達、遠い地方から徴用されて来ていた青年達は帰るに家はなし、汽車は利かない。況《ま》して海を隔てた土地から来ている人は乗って帰る船さえもなかった。工場側ではその事情に従って、十一月まではそれ迄のように寮で暮してよいという話合いをつけた。たいへん親切そうな待遇ぶりであった。しかしいざその生活が始まって見ると、様々な問題が起った。第一食事はその若い人々が、自弁で、外食券で、食べなければならない。外食券の食事が、どんな実質のものかということは、誰しも知っている。胃嚢は、つまるところ闇の食物で満たして行かなければならなかった。五、六百円の金が一皿五円のおでんを食べて、一山十円の蜜柑を食べて、何ヵ月もつというのだろう。男達は自然に博奕を始めた。女子従業員にしても、食物の事情に変りはない。これまでの過度の労働から俄かに働かない生活がはじまり気分は散漫荒廃して、正しい健康な慰安のない街々を歩きまわった。男よりはいずれ少いに決っていた解雇手当は、闇食いで減らされて行き、いつの間にやら集団的な売婬が始まった。その彼女達のある者は、故郷へ帰ったろう。或る者は、また違った職場で、若い娘らしい働きを見出したかも知れない。けれども、今日大都市が道徳的な苦痛として眺めている街の女の氾濫、その大部分が、見た眼にも全く素人である若い娘達の、生活に崩れた姿はどこから来ているのだろうか、これは決して簡単な道徳問題ではない。
 女子挺身隊は四十七万二千五百七十三人という夥しい数であった。挺身隊以外に動員された婦人労働者の数は驚くべき多数に上っていた。その人達が俄かに職場を失った。物価は高い。しかも、家庭の中心的な男子がまだ前線から帰らないか、或は復員しても今まで勤めていた軍需会社が解散していたり、新らしい職場は復員職員を消化し切れない程一ぱいになっていたりする。失業の形をとらない失業者は日本中に満ち溢れている。推定失業者の数は千三百二十四万人である。政府は「しかし復員軍人は旧職場に帰れるし、女子労働者の大部分は家庭に復帰するのであるから実際の失業者というものは四百三十万ぐらいのものである」といっている。私達はこの数字を心に留めて、さて昭和七、八年の世界恐慌の時に世界の失業者はどうであったかということを見較べて見よう。
 当時の世界の経済恐慌は未曾有の失業者を地球上に溢れさせたといわれている。総数は四千五百万の失業者があった。米国は百三十万、ドイツ六百万、イギリス四百万、日本四十七万であった。日本の四十七万という数字は前古未曾有のものであるとして非常に驚かれたのであったが、昨今のいわゆる実数というものは四百三十万になっている。十倍の失業者数である。
「女子労務者の大部分は家庭に復帰するのである」と言い切っているということは、何という厚顔な責任回避であろう。おのずから、殖える人数が楽しく生きて行けるだけの衣料と食物と燃料とが湧き出して来る家庭というような、魔法の小屋は、今日、日本のどこにもあり得ない。魔法の小屋でない「家庭」へ表口から帰された女子失業群が、溢れ出した裏口は、真直、街頭につづいているのである。
 新聞には強盗、追剥、怖しい記事が日毎に報告されなければならなくなって来た。復員軍人がそれらの犯罪を犯すということについて輿論が高くなって、宮内次官は「世間の眼が復員軍人に対して冷た過ぎる」と、さながら人民に現在の社会悪の責任があるかのような口振りである。けれども、静かに思いめぐらした時、これらの復員軍人が秩序を紊《みだ》す行動をする、その奥の奥の原因は果して何処にあるだろうか。この間、元特攻隊員が中心となって集団的な強盗をし、検挙された記事があった。そのとき、不幸な元特攻隊員が「俺達に義理も人情もあるもんか」と、押入った先で啖呵を切ったことが書いてあった。この言葉は短い。けれども、一個の人間として深い絶望のこころを示している。
 前線から帰った人から、最後まで残ったのは兵士であって、指揮官は飛行機で疾《と》うの昔に引揚げてしまっていたという話を、戦争が終ってからは屡々聞くようになった。そういうことは、この間までみんな秘密にされて来た。「戦陣訓」を書いた人物は、細君を離婚してまで、総理大臣として戦争犯罪者として掻き集めた財産を護ろうとした。軍人勅諭を日毎夜毎暗誦させて、それが出来ないとビンタを食わしていた将校たちは、遠い島々で、戦局が絶望になるとさまざまの口実をこしらえて飛行機で本国に逃げ帰った。そして戦功によって立身をした。「聖戦」といわれた戦争の本質は終って見れば虚偽の侵略戦争であった。銃後の生活は護られていて、家庭から離れる不安と苦痛とを耐えていた人々は、帰って来て、焼け
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