いざモラトリアムが公布されるという前日、殆どすべての銀行で、政府要路の人物、財閥たちは、手持ちの厖大な金額を、封鎖洩れとされていた五円紙幣に代えた。モラトリアムが公布されたとき一般の市民は忽ち小額紙幣饑饉で大困難をした。モラトリアム第一日に、各新聞の投書欄は、政治的醜聞として、その公表前に、一部の人々によって小額紙幣が独占された事実を指摘したのであった。これが、事実であった証拠に、政府は、周章して、五円札も封鎖されることを公表したのである。
それぞれの新聞が、モラトリアム家計の設計をのせた。同じように次の式をのせた。
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手持現金旧券+(新円100円×家族人数)+500円以内の給料+300円+(100×X)
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旧券は、それがどれほどどっさり在ろうとも貯金して、(封鎖されて)手持現金としては、家庭の人数当に一人百円ずつ新円にかえられる。それに、主人が五百円までの月給をとって来て、不足のときはその主人(世帯主)が、三百円までの貯金をひき出せる。それに、家庭の頭かずだけ一人宛百円ずつ引き出せる。其故六人家族ならば千二百円の生計が出来て、これ迄よりよいという風な解説が、どの新聞にも出されたのであった。
式は余り明瞭に、まるですべての人の生計がそっくりその通りであるかのように示されたので、私たちは何となしそれを自分たちの実際だと勘ちがいしそうであった。しかし、落付いて考えてみると、この式は、何と魔術の式だろう。
第一、いつの間に日本じゅうの給料が、五百円平均と定ったのだろう。私たちは、つい先頃、政府が男子三十歳――五十歳、最低賃銀四百五十円、女子百五十円と発表したことを覚えている。最低として四百五十円がきめられたのであってみれば、実際の給料の大部分は、決して其額にも達していないことを物語っている。五百円の最高給料というとき、まして其がモラトリアムの下では、全人口の僅か何割かを占める少数者の給料を代表していることが発見されるのである。
一軒の世帯主が婦人であることは、今日ざらだと思う。戦死者の未亡人、まだ帰って来ない軍人、海外在留民の家庭が、婦人の勤労によって支えられていることは普通としなければなるまい。この場合、最低百五十円と、男の三分の一にきめられた婦人の差別的な賃銀は、モラトリアムになってさぞ暮し難かろうからと、男子並に引上げられるものと、想像する人があるだろうか。
手持現金は一人宛百円ずつ家族の頭数だけ新円に代えられるということで、隣組に登録されることとなった。このとき、私たちの周囲には、どんな現象が起っただろうか。六人家内の家庭で、旧円が使える間の生計費をさしひいたあと、現金で六百円並べてすぐ代えた人が多いか。それとも、人数を掛けただけの百円を揃えかねた人の方が多かったか。
一人宛百円ずつ預金を引出せるときくと、その金は、誰にでもあって、誰かがちゃんと私たちのために用意してでもいてくれそうな錯覚をもちかねない。けれども、現実に、預金が干上ってしまった赤字破局だからこそ、モラトリアムはしかれたのではなかっただろうか。一人百円ずつ引出せる、といわれても、引出す金はもう大体において尽きている。
こういう疑問にみたされながら、私共は従順に、十円札に小さい皮肉な膏薬のように貼紙をつけ、三月三日という暦をはぎとった。
旧券封鎖で、物価はどうなるかと、目をみはって来る日を迎えた。配給になった米は、今度から約三倍の値上りをした。町会費も、今月から三倍になった。省線に乗ったらば、二十銭区間が四十銭になり、三円の回数券は、九円である。闇市場では、ミカンや汁粉は、とぶようにうれて、やすいものは売れないと、新聞は報じている。やすいものといっても、十五円のものが十円に下った程度であるとも報じられている。
水道十二倍、ガス六倍の値上げが予告されている。私たちの眼は、大きく大きくと見開かれてゆく。生活は、どうなるのだろうか。今日そう思わない人民大衆は一人もあるまいと信じる。全く私たちの生活は、どうなるのだろう。
三月四日の新聞は「月五百円『当局の家計簿』標準は都会五人家族」という記事を出した。
日本の人口統計では、一家平均の子供数五人とされていたのを思い起して、この記事をみる人々は、おのずから肌に粟を生じはしないだろうか。子供だけでさえ五人平均とするならば、その両親、年よりまでを加えたら、何人家内になるであろうか。「標準」から溢れ、はみ出した二人の人間、或は三人の人間は、何で生きて行くという「標準」なのであろうか。
これらの記事と並んで、同じ紙面に、新円六十万円の泥棒。若い娘の失踪六十一名。幼児誘拐も報ぜられている。天然痘、発疹チブスの危
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