を生む、つよい精神的モメントになった。彼女自身の持っている古風な封建風な潔癖さとも非常によく調和させ、「たけくらべ」という一つの珠玉が生れた。作品でない日記をよむと、一葉が生活と苦闘して、女が社会からうけている扱い、又女同士の間、文学の仲間たちにさえある貧富の懸隔とその心理などについてどんなに鋭く感じ、疑い、悩んでいるかがよくわかる。しかし、当時の彼女の「文学」という観念は、それらの人生課題をじかにとり上げさせず、作品として出たものは封建と新社会との敷居の上にたゆたって、定め難い薄明りの故にこそ一つの美しさを保っているという性質のものであった。
 平塚雷鳥を主唱者とした「青鞜社」の運動は、日本にイブセンとかエレン・ケイとか、婦人の解放を観念の面から取扱った思想が文芸運動として輸入された一九〇八年頃(明治四十一、二年)結成された。『青鞜』は文化運動としての女性の天才の発揮、限りない知的能力の発露ということを目標とした。けれども、根深い婦人の文化運動として永続することは不可能であった。青鞜社の人々の多くは、文化がどのような関係で経済的な社会上の基礎の上に発生するものであるかを知らなかった。経済的に自立する丈の能力を持たず、さりとて、社会的な勤労に従事したこともなかったそれらの婦人達が集まって、文化文学についての情熱を吐露し合ったとしても社会生活における根のなさ、経済的親がかりの事情は、彼女たちの現実の能力を制約した。観念の上で、どんなに純粋に天才を叫んでも、彼女達の現実はやはり紡績工場の女工のハナ子、トメ子が縛られていると全く同じ家族制度と、民法と刑法の中に棲息していた限り、彼女達の飛び立とうとした翼は歴史の中で十分に伸ばし得なかったのであった。
 この時代に『白樺』の人道主義運動も起った。『白樺』は人間の尊重、芸術の尊重、人間精神の尊重を主張した。『白樺』によって紹介されたヨーロッパの芸術家達、例えばトルストイ、ロダン、ロマン・ローラン、ホイットマンなどは何《いず》れも日本の文化に新しい息吹を吹込んだ。白樺運動の、当時まだ若かった武者小路実篤その他の人々は日本にとって一つの新しい魅するところある新鮮な力であった。けれども、そののち何年かを生き古した武者小路実篤が、今回の戦争中、どれ程無智な一人よがりの気持で戦争に協力したかということを見れば、社会的観察力の欠けた人道主
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