その他総てこの時代の婦人たちの作品である。けれども、これらの卓抜な文学的収穫を残した婦人達が、当時の社会でどういう風に生きていたかといえば、それはまことに儚《はかな》い一生であった。どんな文学史を探しても、紫式部の名前は分らない。藤原某の娘であったということが分るだけで、彼女の本名は何子であったのか、何姫であったのか、決して記録されていない。あのような天才を持っていた清少納言にしてもそれは同じである。この時代の歴史の上に父の姓とともに固有の名を記されているのは、極く少数の、藤原氏直系の娘たちだけで、いずれも皇后、妃、中宮などになった人達ばかりである。
藤原氏は、宮廷内のあらゆる隅々まで一族の権力を伸張させるために、抑々《そもそも》藤原鎌足の時代から、自分の娘たちを天皇の母親としようと努力して来た。皇后にするか、さもなければ中宮として、血をとおして一家の権力を扶植して来た。その必要から、自分の娘たちの身辺を飾り宮廷社会の陰険な競争に対してよく備え暗黙の外交的影響と文化の力で、娘の勢力を確保するために才智の優れた、性格にも特色のある婦人達を官女として集め、宮中の人気を集注し、社交的なあらゆる場面で勝利を占めようとして来た。源氏物語を読めば、当時の宮廷内の無為と遊楽と権力争いの事情が実に細かく色彩ゆたかに描写されている。そして、紫式部という官女名をもった一人の優れた真面目な心の婦人作家は、当時の社会に生きる女の一生が、どんなに頼りない気の毒なものであるかということを痛感している。藤原氏専横の当時、中流の女性が、父親の家にあって経済的な基礎もなく社会的背景も権利も無いままに、どんな不安な身のゆく末を思い煩わなければならなかったか、又そこから脱出しようとして、それぞれの才智に応じて、いろいろと進歩の機会を捉える工面をして、せめてその関係に安定のある配偶を見つけようとし、或は宮廷に入ろうと努力した姿は、源氏物語の「雨夜のしなさだめ」にも窺われる。
藤原時代は、支配階級の経済の基礎は、荘園制度であった。藤原氏は今日いう不在地主で、各地の大荘園は、その土地に住む管理者によって管理されていた。が藤原末期になるにつれて荘園の管理者が収穫をごまかしたり、農民の疲弊が甚しくなったりして財源は不確定になって来た。男子の任官というものも、全く藤原氏の権力者のお手盛りであったから、下級官吏達
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