に、天皇一族に対する給与ということが考えられていたのであった。
秀吉といえば、桃山時代(西暦十六世紀)という独特な時期を文化史の上につくり出した規模壮大な一人の英雄である。そして、その感情生活も性格から来る不羈奔放さとともに、専制的な君主らしく一人よがりで気ままであったこと、伝説化されている淀君のような存在もあり、一方には千利休の娘に対する醜聞なども伝えられている。
当時の社会では、征服した者が権力を以て征服された城主の婦人達を意の儘にするということが寧ろ当然の慣《ならわ》しであった。日本の女性史の中で淀君は我儘者の見本のように語られている。しかし、この半ば誇張された伝記の中にも、案外私共の注意すべき点がひそんでいるのではなかろうか。淀君の母親は、秀吉に敗けた柴田勝家の妻であった。お茶々と呼ばれた少女の淀君は、美貌の母と共に秀吉の捕虜となって育った。彼女の美しさは、昔秀吉が恋着した母の美しさを匂うばかりの若さのうちに髣髴《ほうふつ》させた。年齢の相異や境遇の微妙さはふきとばして、彼女を寵愛した。錦に包まれて暮しながら、お茶々といった稚い時代から、彼女の心に根強く植付けられていた「猿面」秀吉に対する軽蔑は、根深いものがあったろう。その秀吉の愛情を独占するということは、とりも直さず女性としては一つの復讐であった。淀君は殆んど分別なく我意を揮った。豊臣家の存亡ということについて、責任を負う気持がなかったのも当然である。
悲劇と喜劇とが錯綜して、日夜運行していた大坂城の中にお菊という一人の老女があった。余程永年、豊臣家に仕えていたものらしい。ところが、このお菊がどんな生活をしていたかといえば、冬でも僅かに麻衣を重ねていたに過ぎないということが、竹越与三郎氏の日本経済史の中に一つの插話として書かれている。そうして見れば、当時最も華美とされた城の中でさえも、女主人公と使われる女達との間には、着るものから食べるもの、あらゆることに恐ろしい懸隔があったことが分る。
徳川時代に入って封建制は確められ、士農工商の身分的区別も確立した。徳川氏の権力維持の努力とそれを繞《めぐ》る野心ある諸家の闘いは、やはり女性をさまざまの形でその仲介物とした。稗史の中でも徳川の大奥というものは伏魔殿とされた。沢山の隠れた罪悪と御殿女中の不自然な生活から来る破廉恥な行為とは、画家英一蝶に一枚の諷刺画
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