死様を見てそのまんまで居られるものか、
 と思って、あの美くしいまだ世間知らずの若い恋を知りはじめたばかりの様な女をおしげもなく散らしてしまうと云うことはあんまり惨こくすぎると男は思った。
「女のために」 男の死の心は幾分かよわくなった。
「己にはそれで、相当に望も持って居るんだ」
 口の中でくりかえして男は今の今までもって居た、大きな貴い、たかい、なげうったのぞみを又くりかえしてひろい上げて見た又手ばなすのがおしくなって、愛の片はしをつまんで考えた。
「己はそれほどの勇気もなければ、
 あの女をつかまえて殺して自分もしぬほどむごくもない。
 彼の女のために己は蒸溜器の底に日の目をも見ずに、かたく、くらく、つめたく、こびりついて居るピッチのようにしてでも生きて居なければならない」
 男は心にそう思って自分を命にかけて思って居る、何も彼もささげつくした女の名をこころでよんで見た。
「神がそう思ってはじめから生れたもんなんだ」
 男はそう云ってその女の胸をだくように力を入れて胸をだき、女の唇を吸うように深く深く息をすった。
[#地から2字上げ](終)



底本:「宮本百合子全集 第三十巻
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