邸宅をおくられた。ことわるほどのものでもなかったと見えて、それもうけとった。
漱石の妻君の弟に、建築家があった。その人は、建築家仲間がその姓名のゴロを合わせて、「アドヴァンテージ」(利益)というあだ名で呼ぶような人柄であった。漱石は、その人をすかなかった。親類でも、いやな奴はいやな奴として表現する。それが漱石であった。
漱石が死去して、門人たちは出来るだけこの文学者の趣向に合った墓をこしらえてあげたく思った。ところが、アドヴァンテージが墓をつくった。石づくりの、でっちりとした重苦しい墓で、それは漱石の心に反した。心ある人々は、死んで、抗議の云えない人の墓を、生前好かれていなかったと知っている者が、今こそと自分の生得の力をふるってこしらえた心根をいやしんだ。そして、漱石を気の毒に思った。その墓は、まるで、どうだ、何か云えるなら云ってみろ、と立っているようである。
日本の治安維持法は十七年間に十万人の犠牲を出して、一九四五年の秋、その血なまぐさい歴史を表面上まきおさめた。
この悪法が撤廃され、獄中の人々が解放された時、日本は一種の昂奮した状態におかれた。悪法犠牲者が、そのとき英雄と
前へ
次へ
全6ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング