紅葉山人と一葉女史
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)対髑髏《たいどくろ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)貴賤[#「貴賤」は底本では「貴餞」]
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 今まで、紅葉山人の全集をすっかり読んだ事がなかった。
 こないだ叔父の処へ行って二冊ばかり借りて来て、初めて、四つ五つとつづけて読んで居る内にフト気づいた事がある。
 それは、一葉全集をよんで感じたと同じ事である。
 いかにも立派な筆を持って居られた、と云う事は両方を見て等しく感じる事である。
 筆をつけて居る時の苦心の名残は、つゆほどもなく、スラスラと、江戸前のパリパリの筆の運びには、感歎のほかはないのである。
 よくこう筆が動いたものだ。
 読んだものの、誰れでもが感じる、正直な、幾年たっても変らない感じである。
 けれ共、私には、三つ一時につづけて読む事は出来ない、何となしもたれる。
 どう云うわけだろう。
 一葉全集を読んだ時も、そうであった。
 紅葉全集をよんでもそうである。
 それは、材料があんまり、同じ様だからと云う事から来るのでは有るまいか。
 勿論上下、貴賤[#「貴賤」は底本では「貴餞」]、貧富の差はあっても、同じ様に男女関係を骨子としてある。
 そのなりゆきを序す筆の達者さ、巧な人物の描写法、活用法に一つ一つ独立させて、異った時に読めばあきる事をしらないのである。
 いかにも、上手に書かれてあると思う。
 けれ共、二つ三つと、よし異った形式、事柄でも、よんで居るうちに何となしけったるくなる。
 まるで違った材料をあつかったものが欲しくなる。
 一葉女史の作品でもそうだと思う。
「にごりえ」から始まって「たけくらべ」に至るまで、同じ様な骨子である。
 立派に活きて居る才筆である。
 まことに驚くべきものである。
 紅葉山人のは勿論、少しは異った材料も、あつかって居られる。
 けれ共、それは割合に、作者自身あんまり重きを置いて居られないらしく見える。
 紅葉山人の筆があって露伴先生の頭があったらと思う。あんまり沢山読んで居るのでもないしするから、よくわからないけれ共、露伴先生よりは、紅葉山人の方が人物の描写が、何とも云えないほど上手であられる様にも思われるし、又才筆であった。
 露伴先生のは、思想がいかにも卓越した、流石は禅学
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