を深くさぐられた先生だけあると思われる。
 同じ、馳落を書かれても露伴先生のは、どっかすっきりした禅めいたところがある。
 対髑髏《たいどくろ》 にしても若しあれを紅葉山人が書かれたものとしたら、そう云う題もつけなさらなかったろうし、又あの女主人公のお妙《たえ》を「隣の女」のお小夜の様な凄い腕の女にされたかもしれない。
 露伴先生の様な思想をもって居られたら、あの才筆とともなってどんなに立派なものが遺されたかしれないと思う。
 一葉女史にしてもそう云う感じはあざむかれない。
 あの「にごりえ」や「たけくらべ」の人物を写す立派な筆、情のこまやかな、江戸前の歌舞伎若衆の美くしかった頃の作者に見る様なこまかい技巧をもって、もう少し考えさせる材料に手をつけられたらばと思う。
 私は必[#「必」に「ママ」の注記]して、紅葉山人や一葉女史が、取るに足らない作家だったとか何とかけなすのでは必してない。紅葉山人が、用語の上に非常な苦心をもって、新らしい試をされたのだけでも氏の遺業は大なるものであると尊ぶのである。
 一葉女史にしても、そのまれに見る才筆にはいかなる賛辞も惜しまないのである。
 けれ共、今云った様な事を感じたのは、かくす事は出来ない、――又、かくしたいとも思わない事実である。
 この両作家の居られた時代を考えれば、それが必して智識の浅薄であったとか、研究の足りない頭であったとかは云われないのである。両氏が居られたのは明治三十年前後で、一葉女史の世を去られたのは明治二十九年、紅葉山人は明治三十六七年に、没せられたと覚えて居る。
 いずれも、我が文学界に大なる改革の行われる導火線であった日露戦争前に栄えて空しくなられたのであるから、日露戦争以後に起った文学――哲学的な、宗教的な、自箇の思想、箇人性を発揮し様とする文学を見る機会が少なかった、――或はまるでなかったかもしれなかったからでも有ろう。
 とは云え、紅葉山人は外国のものも沢山こなして居られたのではあるが、一般的に海外の文学的思想が流入して居なかったから、よし書かれたとしても、「此のぬし」「おぼろ舟」等の様な賞讚は或は受けられなかったかもしれない。
 時代のためも有ろう。けれ共、私は一葉女史と紅葉山人の作品にはその形式技巧や筆致の上にはこの上なく感心はしながらも、材料と思想が何だか物足りぬ。
 まだ、ろくに「いろは」
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