の桶。そんなものから立つ匂いは林檎だの、奥の方にどっさりつるしてある燻製魚だのの匂いと混りあって独特の親しみある匂いで天井の低い店じゅうを充しているのであった。朝子は買物袋をぶら下げながら、あちこち見てまわった。そして、手間どってイクラだの酸っぱくした牛乳だの小魚の燻製だのを買った。紅茶と石鹸がきょう入荷したばかりで、それをめあてに押しかけた人で、勘定場の列は全くのろのろと動いているのであった。靴の底を擦って皆が一歩一歩動いている石張床は、今に雪が降るようになると辷ってころばないために、入口の段々のところからずっと大鋸屑《おがくず》をまかれる。雪でしめらされ、群集の湿気でむされる大鋸屑からは鼻のつんとするような匂いが立ちのぼって、午後の三時ごろからもう電燈の煌《かがや》いている店内に、何とも云えず陽気な雰囲気をふりまくのである。
 朝子は、三年前の十二月の雪の晩のことを思い出した。シベリア鉄道から停車場についたばかりの素子と二人が、馬車にゆられながら、幌から首をさしのぞけるようにしてどんな感動で降る雪の間に燦めいている商店の窓々やその上の方に暗く消えこんでいる夜空を眺めたことだったろう
前へ 次へ
全34ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング