。それから何度この食糧店へも来たか数しれないわけだが、思えば、こういう平凡そうな日々の営みの中から今日までに自分が獲て来ているものを考えると、朝子は新しい感動を覚えた。今帰国をひかえて自分たちが当面している問題にしろ、それに対する自分たち二人の心理のそれぞれのちがいにしろ、心づかない間につみ重ねられて来ているその原因をつきつめてみれば、朝子にはやっぱりこの食料店《コンムナール》の北国風の匂いも切りはなせないものとして考えられるのであった。
 素子は専門のこの国の文学研究のために来た。小説をかく朝子は、アンナ・カレーニナなどという小説でごく身近に感じられている色彩の多い古い国、しかもそれが見ず知らずの新しいものになりかかっているという国、遠いところからの賞讚と誹謗とで渦巻いた中に遙に見える国の生活に好奇心を抱いて来た。素子も朝子も初めのうちは、同じように、それぞれの程度で語学の勉強をはじめたりしたが、暫くすると、一部屋住居の彼女たちの暮しに、同じ時刻の別な暮しかたが始った。素子のところへ教師が来ると彼女は朝子にその部屋を出るように云った。廊下にいることはできにくかったから、朝子はその都の案内書をたよって、いろんな場所いろんな人の集るところへ出かけた。二人の書類についての面倒くさいかけ合い、本屋で素子の必要な或る本をさがし、なければ注文する用事、それから日用品のこまごました買い出し、そういうことが素子の机に向っている時間、朝子の生活をみたすようになった。そして何と面白いものだろう。この古くて全く新しい国が一九二〇年代の終りから三〇年にかけて経験した二十四時間は、食物でも紙でも衣類でもひどく品不足で、キャベジの四分の一塊りのために朝子はたくさんの道のりを歩き、長く列につき、なおあの五つの大キャベジも自分の一人前のところでなくなりはしないだろうかとはらはらした。バタやチーズがなくなった。それは農民が牛を殺してしまったからだというけれど、何故牛は殺されるのだろう。朝子は自分たちの生活の朝から夜につづくあらゆるそういう現象の意味を知りたくて読書した。
 素子は何冊も古典や現代の詩を教師とよんだ。詩韻の解剖をやった。専門の勉学は進んだし、夏や秋の大きい旅行は素子のプランにしたがってやられ、同じように世界の古い背骨といわれる大山脈やテレクの川風に吹かれたのだが、朝子が街の喧囂《けんごう》の裡で群集の感情にふれ、自分の感情をも吟味し、こんな不如意をどうしてこんな元気でしのげるかという一般的なおどろきから、やがてその理解に入って行く塩梅とは、どこやらちがうものがあった。そんな違いも互に認めあっていて、諧謔《かいぎゃく》の種ともなって来たのであったが、今、突然朝子にだけそこでの生活を一層承認し保証する意味をもつ居のこりの可能が示されたことは、朝子自身に亢奮なしで感じられないとおり、素子には何か自分だけ三年の果に本の荷箱と一緒に荷って放り出されたような、沮喪させられる切なさであることもわかるのである。素子がひとりかえるとすれば、それは文字どおりのひとりで、生活においても、心においても、朝子とはちがうものとして、朝子を承認したものに承認されなかったものとしての自分を自分に納得させなければならない。しかしそれは素子にとってどんな苦痛だろう。その苦痛が、情愛の問題より深刻に二人の人間としての精神に切りかかって来ているものであることが、さっき重い扉を押してトゥウェルフスカヤの通りへ出た時から朝子には犇《ひし》と感じられているのである。うっかり考えこんでいるので、朝子は自分がもう勘定場の前まで来ていたのに気がつかず、黒い布で頭を包んだうしろの年とった女から、
「どうしなさったね。財布でもおっことしたのかね」
と注意された。

        二

 朝子の気持は素子にもよくわかっていると思えた。朝子はつまりは自分で決心するとおりに行動するだろう。これまでずっと、そして生きて来たとおり。だが、その決心はまだ心の中にきまらずにいる何かの理由でかためられていないのだ、と。そういう自分の気持が、素子にありのままうつっていることを朝子もまた十分知っていた。二人は、翌日になってもどっちもその問題にふれなかった。けれども、薄青い壁にかこまれた部屋の空気にはこれまで二人のいる処になかった一種の緊張した、神経質な空気が漂いはじめた。大体に口数が少くなり、笑うこともなくなった一日の中で、素子は頑固に机に向っているが、神経の端々はいつも水色のジャンパアを着た朝子のまわりに動いていて、その心のうつり行きをうかがっているような雰囲気である。
 部屋の真中に立っている本棚の仕切りの右の窓べりで、朝子はひっそりとして勉強していた。窓じきいには、酸化牛乳《プロストクワシャ》のコップが世帯じみ
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