そりゃあなたには云うさ、私には云わないよ。そうだろう?」
ハ、ハ、ハ、と苦しそうに区切って顔を仰向けながら素子は甲高く不自然に哄笑した。そして、笑ったので溜った涙を拭くという風に、眼鏡を手の甲でもちあげて眼をこすった。朝子は自分の心の動揺とともに、そういう形であらわれる素子の混乱も見ていられない気がした。幾分子供らしい恐怖の浮んだ表情になって朝子は熱心に、
「でもその話は、作家としてのことなのよ、そういう範囲でのことなのよ」
と云った。
「どっちだって同じことさ」
そして再び机の方へ向き直りながら、
「どうでもあなたの考える通りにすればいいが、私は、あなたのおっ母さんたちに妙な云いわけ役をさせられることだけは真平御免だからね。それだけは前もっておことわりだから。帰らないんなら帰らないでいいから、はっきり手紙でも何でも書いといてもらおう」
ここで暮した三年を入れれば、朝子たちは六年ほど一緒に暮して来た。その年月のなかで二人の女はどっかで少しずつ少しずつちがったものになって来て、今さけがたい一つの岐点にぶつかった。そのぶつかり工合にも、何かめいめいの角度というようなものがあらそえない形で現れていることが痛切に感じられるのであった。
寝台の枕の上へ横になった顔を押しつけて考えこんでいるうちについとろりとした朝子は、やがて、
「御飯までにケラシン(炊事用石油)買って来とかなけりゃ駄目なんだろう」
と云っている素子のそっけない声で、びっくりして起き直った。素子はわざとこっちに背を向けたまま、自分の声の素っ気なさを意識している調子で云っているのであった。
朝子は黙って立ち上って靴をはきかえ、衣裳戸棚をあけて太い麻糸でこしらえた買物袋をとり出した。その大きい衣裳|箪笥《だんす》の左側の小さい棚が、このホテル暮しの彼女たちの食器棚になっているのであった。帰る時が目前に見えてから素子は焦立たしいような執着で朝から晩まで机と本にとりついていて、日々のそんな用は朝子のうけもちのようになった。
「じゃ行って来る、ほかに用ない?」
「私はないよ」
ホテルを出ると、朝子はさっき来たとは反対の方角へ急ぎもせずに歩いて行った。裏通りになるその辺の車道は古風な石敷道で、永い歳月のうちに踏みへらされた敷石のどれもがいろんな不規則な形に角を磨滅されている。そのごろごろした石と石とのすき間はひろく深くて歩き難く、冬日のなかに何処となし馬糞のにおいが漂った。重い蹄鉄をうった荷馬が車輪をその石敷道の上ではね上らせながら通って行くと、元気よく石をうつ蹄の音や車輪の音が灰色っぽい左右の建物に反響して、再び下を歩いている朝子のところまでかえって来る。何かの塀で行き止りになった小路の左側に石油販売所があって、もうそこの歩道には二十人ばかりの列が出来ている。朝子はその列の尻尾についた。油じみた販売所の鉄扉は開いていて、鞣前垂《かわまえだれ》の男の姿がチラついているが、まだ売り出してはいない。日本の雀よりすこし羽色が黒っぽいようなこの都会名物の雀たちが、日向にころがされてあるドラム罐の上から、チュと囀って飛び立ったりまた戻って来たりして遊んでいる。その有様を眺めて、朝子は列の動き出すのを待った。素子と二人分の切符で瓶が二本買えた。
それからパン屋へ行って、ここでも列について一日分のパンを買った。朝子は夜のお茶にたべるものがなかったことを思い出して、街角三つばかり先の食糧店の半地下室へ下りて行った。
入口近くにいくつも並んだ胡瓜漬の大樽、鮮やかな朱だの水色だの不思議な色をした塩漬キノコの桶。そんなものから立つ匂いは林檎だの、奥の方にどっさりつるしてある燻製魚だのの匂いと混りあって独特の親しみある匂いで天井の低い店じゅうを充しているのであった。朝子は買物袋をぶら下げながら、あちこち見てまわった。そして、手間どってイクラだの酸っぱくした牛乳だの小魚の燻製だのを買った。紅茶と石鹸がきょう入荷したばかりで、それをめあてに押しかけた人で、勘定場の列は全くのろのろと動いているのであった。靴の底を擦って皆が一歩一歩動いている石張床は、今に雪が降るようになると辷ってころばないために、入口の段々のところからずっと大鋸屑《おがくず》をまかれる。雪でしめらされ、群集の湿気でむされる大鋸屑からは鼻のつんとするような匂いが立ちのぼって、午後の三時ごろからもう電燈の煌《かがや》いている店内に、何とも云えず陽気な雰囲気をふりまくのである。
朝子は、三年前の十二月の雪の晩のことを思い出した。シベリア鉄道から停車場についたばかりの素子と二人が、馬車にゆられながら、幌から首をさしのぞけるようにしてどんな感動で降る雪の間に燦めいている商店の窓々やその上の方に暗く消えこんでいる夜空を眺めたことだったろう
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