た光景をかもし出しながらのっている。朝子は辞書を絶間なくひっくりかえしながら翻訳をしているのであった。歴史で有名な或る婦人の伝記で、特別文学的に書かれているのでもなかったから難解ではなかったが、慣用語で朝子の知らないのが少くなかった。朝子のつかっている字引にはそういう細かいところまで出ていないのであった。紙きれにそんなのを幾つか書きつけた。そして仕切りのむこうから煙草の煙が流れているとき、それを素子にききに行った。
「ちょっと、これ何ということになるのかしら……」
素子はこれまでの二人の生活の習慣から何ということなし黙って、朝子が目の前に出してある紙きれの上にかかれている下手な字を読んでいたが、読み終ると急にこみ上げる激しい感情に喉をせかれたような声で、
「自分にやれると思ったので引受けたんだろうから、ひとりでやったらいいだろう」
突っぱなして云った。そんな仕事を朝子が熱心にやっていることも今の素子には腹立たしい刺戟である。それがあらわに示された。これも、今おこっている問題と連関をもっていた。朝子としては、仕事そのものより、自分の誠意の問題として大事に考える種類のことなのであった。
突っぱねられて、朝子は悲しい顔をした。そういう態度で素子が自分の個性にだけ立てこもって二人の距離をひらいてゆくようなのが、朝子にはこわくてまた悲しいのであった。それなり暫く朝子は傍に佇んでいたが、やがて自分の机へ引かえした。到頭、そんなことを云わないで、という言葉が朝子の口を出得なかった。今度の問題は、素子がそれほど恣意的に振舞う筈のものだろうか。そういう素子を隔たった眼で眺める心が、朝子のうちにもかき立てられた。
窓の外に視線をやって頬杖をついていたら、顔をこっち迄現わさないで、素子が新版の大きい辞典を机のはじへ突き出してよこした。
「それを見れば大抵のものはある――」
朝子は無言でしずかにそれを自分のよこへ置き直した。
自分の心のうちの動揺を整理してゆく手がかりにも思えて、朝子は一心に誰の助けもかりずその仕事をつづけているのであった。
その間にも素子は、二人が帰国の準備として立てていた計画を決して変えようとせず、躊躇したり見合わせたりせず、今は、どっちみち自分は帰るんだからと押し出したテンポで着々すすめて行った。そのことのために、自分は益々机と本とにつながれ、朝子はやはりこれまでのとおり毎日遠方の出版所へ定期刊行物を予約に行ったり、役所へ行ったりした。そんな場合、朝子は自分の生活にとってそれ等の事務的な用件の現実性が全部遠くなったような奇妙な心地と、もしかしたら素子のためにこのようなことをしてやる最後かもしれないという生活の転機を自覚した名状しがたい心持とを、同時に経験するのであった。
火曜日の夕方、出がけに素子が外套を着ながら、この頃では珍しいあたり前の調子で、
「今夜はどうする?」
ときいた。一週に二度ずつオリガという女友達のところへ行って、素子は読んでいる小説の俗語の云いまわしをきいて来るのであった。
「さあ……」
朝子も立って来て、身仕度をするのを見ながら、
「どっちでもいいけれど、私は――」
「おいでよ。この間もオリガさんがきいてたから。何故この頃来ないのかって」
「じゃ行くわ、二時間もして行くわ」
七時になると、朝子は身仕度して、城壁の傍の広場まで歩いて、そこからバスに乗った。市の外廓に向うバスはその時刻にはごく空いている。市街の中心を大分出はずれた大きい四辻で降りて、人通りの疎な、薄暗い往来をすこしゆくと、古風な彫物の窓枠をもった木造の家があって、寂しい板囲いの塀がそれにつづいている。板囲いの木戸を入ると、楡の大木の生えた内庭があって、オリガの住んでいる二階へあがる木の段々が、いきなりその内庭へ向って開いているのであった。階下に住んでいる家具職人の窓から洩れて来るぼんやりした光をたよりに一段一段のぼって行って、ドアをあけ、天井の低くかぶさった小部屋の灯の下に白いブラウス姿でいる血色のいいオリガの顔を見たら、朝子は思わず、
「ああ来てよかった!」
そう云って、オリガの堅い力のある手を握った。
「今更みたいに!」
オリガは笑いながら、テーブルのむこうの素子を顧みた。
「私のところは、いつ来ても、来てよかったところじゃありませんか、ねえ、モトコさん」
素子は何とも云わず煙草をくゆらせ、しかし朝子が現れたときの最初の一瞥でやはりその心の中まで調べずにはいられないような視線を走らせたのであった。朝子は、オリガとあれこれ世間話をした。オリガは勤人で、その小部屋には寝台と一つの本棚と箪笥とその上に飾られた何枚かの写真とが、僅かの家具類と共にあるだけであった。そんな生活の道具だてのなかに一種の居心地よさがこもっていて、さ
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