っぱりした住みての人柄が感じられた。
「あなた方、かえる迄にもう何度来られるかしら。一つおいしくお茶を入れて御馳走しましょう」
 石油コンロで湯をわかし、オリガがジャムをとりわけていると、その手元を見守っていた素子が遂に辛棒しきれなくなった風で、
「私が帰ることは確だけれど、朝子さんがかえるかどうかは知りませんよ」
 変にしずかな声で云った。オリガは、
「本当に?」
 びっくりした表情を素子に向け、朝子に向けた。
「モトコさん真面目に云っているの?」
「真面目さ」
 朝子は困惑した顔つきで黙っていた。その顔をじっと見ていて、オリガの眥《まなじり》に皺のある大きい眼に思いやりの柔かみが浮んだ。
「それで――もう決定したの?」
「いいえ、まだ」
 誰もそれ以上は云わず、暫く皆だまり込んでしまった。やがてオリガが、自然に話題をかえて自分の小さい甥の噂をはじめた。それからまた一転して、今度は素子と俚諺《ことわざ》の話がはじまった。その話では素子が感興を面に浮べ、帳面をひろげて書きこんだりしている。
 朝子はこの問題がおこって以来、初めて、いいえ、まだ、という二言で素子の前にも自分の心を表明したわけなのであったが、そう言葉に出された自分の声を聴いてみると、一面では至極当然簡単に決定しそうなことが決定しかねているという、心持の撓《しな》いに愕く気持がつよく湧いた。
 話が切り出された初めから、ここに止って作家として活動すれば最低で二百万部は出版されるのであるしというような点は、朝子の心にそう深く刻まれなかった。朝子を感動させたのはそれよりも、ここに止って活動し得る作家としての評価であった。自分が作家としてそれにいくらかでもふさわしい者だという、その大きい駭きと歓びとの激しさであった。その感動が余りひどくて動顛に近い心の波をおこしたとともに、今、いいえ、まだ、と云いつつその心持の限りでは、こころからの受諾を感じるのであった。涙の浮ぶ混り気なさでそれが感じられている。でも何故それなら、いいえまだ、なのだろう。
 朝子は同じ小テーブルの向い側にぼんやり見ていた素子の物を書いている頭のところへ、改めて我が目を据え直したという眼瞬《まばた》きかたをした。そこまで考えを追いつめてみれば、もうそれは素子の感情などとは関係なく、この問題そのもののうちに含まれている何かが、朝子に「いいえ、まだ」もうすこし深まることがあると、微に、しかし決定的な粘りで蠢《うごめ》いていると感じられるのであった。
 オリガの家の板囲いの塀を出ると、素子が、
「どう? すこし歩こうか、いや?」
ときいた。それは出がけに朝子が気付いたよりも、更に劬《いたわ》りの加った調子であった。オリガへの返事を、素子がどうとって、どんな自身の心持のよりどころとしたのだろうか。そういう不安と詮索が閃いたが、朝子はおとなしい口調で、
「じゃ、あの赤いお寺の横までね」
と承知した。心に新しく浮び上って来たまだ形のはっきりしない考えの重さが、ひとりでに朝子をおとなしく引き緊めているのであった。
 丁度いろんな集会が終った刻限で、店舗のないその辺の薄暗い歩道も活気を帯びていた。この時間に朝子たちと同じ方向へ歩いているのは僅かで、むこうの闇からぼやけた輪廓をぐんぐんと近づけて来る通行人たちが、あとからあとから擦れちがいざま、パッと街燈の光の圏に入った刹那だけ様々の顔立ちを夜霧と白い息の交ったなかに見せ、忽ち通りすぎてゆく。
 大劇場のある城壁近くの広場は、人波のひいた直後の深夜の寂しさが通りにみちていて、ゆるい勾配で上りになっているそこを、ホテルの方へゆっくり歩いた。ぽつりと素子が云った。
「作家がね、自分の国の言葉で書けなけりゃ仕様がないだろう?――私はそう思う」
 言葉というだけの意味でなら、朝子におこっている話の場合、それは云わば先ず第一に朝子として出したことであった。日本語のわかるものがいくらもいるんだから、そんな心配はいらない。朝子は日本語で日本のことを書けばいい、と云うことになっているのであった。
「語学の条件としては、解決しているんだけれど……」
「日本語で書くわけか……日本のことを?」
「ほかに私として意味がないわけでしょう」
 素子は黙っている。
 日本語で日本のことを小説に書く……ここで。――その観念には、夜空にプラカードのはためく人通りのすくないこの歩道の上で、ここの生活を日本へ書いて送っていたこととおのずから違ったものとして、朝子の実感にふれて来るぼんやり居|馴染《なじ》めないものがあることもおおえない。二人は、一つのことをあっちの端とこっちの端とで考えている表情のまま、黙ってホテルの階段をのぼって行った。

        三

 どんな気持で、素子はあんなことを特に云ったのだろ
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