う。彼女が文学に対してもっている理解からの誠意で云われた言葉だったのだろうか。それとも、時々素子が実際に当って発揮する非常にこまかい暗黙の悧巧さから投げた暗示のようなものだろうか。
素子の顔からは何も読みとることは出来なかった。二人はやはり用事のほかは余り口をきかず、素子は自分の苦しさからの目立った意地わるからは抜けて、しかし一定の距離から内へふみこまない態度でいるのであった。誇張の消えた事務的な調子で、素子は本を詰めて送るための木箱を催促に自分で行ったりしている。
その晩二人は劇場にいた。いつも満員の劇場だが、今夜は或る青年劇団の特別出演で、二階のバルコニーの段々へまで見物人がつまっている。天井から平土間まで、溢れる若々しい活気をやっと抑えているような何とも云えないざわめきが満ちていて、幕があがると舞台の上の若さと見物席の若さとが両方から無邪気にかけよって一つ世界にはまりこむような熱中が感じられるのであった。大体が芝居と音楽好きなこの国の連中のことだとは云え、その夜は全く特別の光景であった。年寄連中の気分もひとりでに釣りこまれて、陽気に頬を火照らしながら、手のひらに持ったリンゴを時々かじりながらあちらこちら見廻している。
朝子は、平土間の中頃に余程前から心がけて買っておいた席があった。初めちょっとした青年生活を諷刺した笑劇で、爆笑哄笑のうちに終ると、バルコニーの席にいる若い見物人たちが、その芝居のなかで歌われた短い快活な唄を忽ち覚えて合唱しはじめた。こまかい節まわしのところはうまく行かなくて笑声混りにごちゃつきながら、終りの
おお
われら 若い者――
われら 若い者
という反覆句《リフレーン》になると、それまではひょろひょろしながらついていた声も急に目の醒めたような心からの力で、
おお
われら 若い者
と声を揃えて歌い切るのである。朝子はあらゆる感覚を開放して、その歌声と雰囲気とに浸り込んだ。ふりかえってバルコニーを見上げれば、その一団の若い男女は別に誰にも見てもらう気もなく自然な感興のまま淡白に自分たちの間で拍子をとって歌っている。生活のよろこびは天真爛漫で、そのよろこびを合理的に現実的に自分たちで刻々につくっているものの寛闊な拘りなさもつよく感じられるのであった。
これに比べて、自分の感動は何と複雑で、ある感傷を常にもっていることだろう。それらを眺め、感動している自分の心のニュアンスの相違が、新しいおどろきでその晩は朝子をうった。こういう精気溢るる情景にふれる時、この三年の間朝子が胸を顫《ふる》わしながら思って来た第一のことは、ああこれをこのままみんなに見せてやりたい、そういう激しい願望であった。このよろこびをうつしたい、伝えたい、そしたらどんなによろこぶだろう。そういう強い願望であった。みんなというのはもちろん朝子の生れた土地のみんな、こういうよろこびをよろこびたいと思っている正直なみんなのことで、例えば今劇場の円天井をとび交う歌声をきいても、朝子の深い感激にはまぎれもなく、自分のほかの幾千幾万のここにい合わせない人々の心のよろこびたい熱望が引き剥せない訴えの裏づけとなって感情に迫って来ているのであった。こういう感動の刹那、朝子はいつも自分の素肌の胸へわが生とともに歴史の明暗をかき抱くような激しい情緒を経験するのであった。
おお
われら 若い者
われら 若い者
バルコニーではまだ歌っていて、しかも初めよりはだんだんうまく歌っている。
朝子は凝っと聴いていて、やがて颯《さ》っと顔を赤らめいきなり涙をあふらした。
「どうかした?」
並んでいる素子がきくのに、朝子は黙って首をふった。若者の歌やよろこびの光景は、ここへ来て十ヵ月ほど経ったとき東京で自殺した弟の保の面影を痛惜をもってまざまざと甦えらしたのであった。それに連関して朝子の心には声なき絶叫がひびいた。われら、いつの日にかこの歌をうたわん。――われらというのは、やはりこのわれら自分たちをこめて遠いところにいる幾千、幾万だと、朝子は切実に感じるのであった。
舞台では引続いて、三幕ものの戯曲が演じられた。それはワーロージャという青年が、自分の個人的な行動からその列車にのり組んだ仲間全体の計画を齟齬《そご》させた責任を感じて、自殺しかけて失敗する。死ねなかった彼は、その責任を償うために或る重要な献身的任務につく過程を真面目に扱ったものであった。ファジェーエフの小説にかかれた当時からは十何年か前の時代がその背景となっていた。ワーロージャに扮した青年俳優は、一人の娘をめぐって、そのものとしては善意な侠気が、政治的な紛糾の種となってゆく、その見さかいのつかなかった若い心の動きと悔恨とを巧みにとらえて表現した。見物席は自分の場合のことと
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