しての実感でうけ入れ、批判し、緊張している精神の戦《おのの》きが感じられた。ここの若者たちは、小説をよむのもそういう工合だし、芝居を見るのも、常にそういう素朴で勁《つよ》い態度をもっているのであった。
幕間に、今度は朝子たちも席を立って、劇場のなかの大広間を、楕円形の輪をつくって歩いている人々の列に入った。超満員の今夜は、廊下にまでこの環ははみ出している。
鉢植の棕梠《しゅろ》のかげにサンドウィッチやお茶を売っているブフェトがあったが、そちらは黒山の人だ。絶間なく床を擦る夥しい跫音や喋ったり笑ったりする声々が、濛々たる煙草の烟に溶け合わされている大広間をめぐってうごく人の環の一つとなって、芝居の印象と一緒に自分の心の問題の上をも一歩一歩と歩いているような朝子の心には、くりかえし、くりかえし、さっきの文句がつき上げて来るのであった。ああわれら、いつの日にかこの歌をうたわん。そして、今夜は、はっきりと感じられるのであった。自分が小説をかくからには、ほかならないこの歌わんとするわれらの生活をこそ書きたいと。
源氏物語を翻訳する教授はいるし、新聞をよむ語学生はどっさりいた。だが朝子は、こういう歓びの同感のさなかでさえ、その感情を感傷で裏づけるほど身近に感じられている悦びへの渇望、それによって生き、殪《たお》れる今日の日本のわれら、その生活を自分は描きたいと思うのであった。
芝居がはねて、外套預所のえらい混雑からぬけ出ると、外套のボタンをはめながら、朝子は、今度の話がおこってから何日にもない晴れやかなところのある眼差しを素子に向けた。うれしいことがあるの、そう囁きたいぐらいの心持がした。朝子はいつか自分でも気づかないうちに問題の焦点を一つひっくりかえして、ここに止るか、止らないかを抽象的に決定しようとせず、いきなり仕事のテーマにふれて、その成長が可能ならいてしまおうとする自分を感じたのであった。
この都会には何と地球のいろんなところからの人間が集って来ているのだろう。この国自身の内にさえ幾つとない地方語をはらんでいて、一年のうちの大きい集会のある春や秋の季節になると、トゥウェルフスカヤの通りだけでも、色とりどりな民族・風俗展覧会のようになった。まだすっかり夏になりきらない五月の風に、日本の大名縞の筒っぽそっくりな縞の外衣の裾を吹かれながら、その上兵児帯のような帯で前ひろがりにおさえて行く人達は、同じ南方から都にのぼって来ていても、きりっとした長靴、腰のところで粋に短く裾のひろがった上衣に短剣を飾った高架索《コーカサス》の連中とは、言葉も習慣もちがっているのであった。ジョン・リードのようにアメリカから来て、この国の歴史の一頁のうちに生涯を托して城壁の中に墓をもっている男もいる。中国の娘たちの濃い黒髪の切り口は、縞の鳥打帽から肩の上へまであふれて揺れ動いている。
この頃朝子たちのホテルには、ドイツから来た一団の労働者が泊るようになった。新しく時計工場が出来て、そこへ機械とともにやって来た人たちであった。男ばかりの一団であった。夜になると、彼等が声を合わせて自分の国の言葉で、この国の若者たちが好んで歌う歌をうたっているのが、朝子たちの部屋まできこえて来た。そして、その歌の節は、朝子たちもやっぱり自分たちの言葉で歌をつくることの出来るものであった。ハンスというケルン生れの機械工の一人はいつか素子と知り合いになって、部屋へも遊びに来た。街角の大きい銀行だの役所の屋根の破風には、その経営の中で機構の清掃が行われていることを市民に告げるプラカードが目立ち始めた。
朝子は、そういう都会の生活の動きを刻々に感じながら、辞書を引く仕事の間には、自分の仕事のテーマについて考えた。
ああ、われら、いつの日にかこの歌を歌わん。いつも朝子の耳には、その文句が鮮《あざやか》にきこえて来た。そして心はその文句の上を大きくゆるく旋回しながら、次第次第に下降して、その輪が静止したところには、保の死とそれに対する自分の惜しく腹立たしく悲しい心持とが、明瞭に横わっているのであった。だが、今の朝子には、保の死というものが、歌わんとするわれらの鏡としてみればその裏の姿であることが理解されていた。歴史の浮彫にたとえれば、保の辿った路は、その裏の凹みのような関係で、云わば凹みの深さ、痛切さは、肉厚くその凹みのあっち側に浮立っている生活の絵模様を語っている筈なのであった。朝子の心の輪のしぼりは更に小さく接近して、その絵模様をさぐろうと試みるのであった。が、それはいつも平面的な図取りとして、朝子の心に映って来るばかりであった。図取りの全部が見えている。そっちに見えている。だが、その図取りに自分が体で入って描き出している線というものはなかった。
新しく瞠られた探索の目を
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