もって、朝子はすっかり自分自身の心の裡にとじこもってしまった。一緒に食事をしているようなとき、それから素子が誰かと話していて不図視線が合ったようなとき、朝子の二つの眼のなかには自分に沈潜しきって自分に向って何か問いただそうとしている真摯な集注した表情があらわれていることに、素子は屡々《しばしば》心付いた。そして、その眼つきの裡には素子もないし、朝子に止まることをすすめているひとのかげも入りこんでいない。そのこともまた感じられるのであった。
朝子がふらりと行先も云わず部屋を出て行って、何時間も帰って来ないようなことがはじまった。帰って来ると、寒い戸外の匂いを髪や外套につけて来た。
二人の感情は微妙に変化して、素子の眼が時々率直に心配をこめて、相変らず出るにも入るにも水色ジャンパーを着て思い沈んでいる朝子の姿に注がれることがあった。朝子には心がどこかへかたまっている人間の上の空のおとなしさ、優しさがあって、素子は本当に言葉通りの気遣いで云った。
「ふらふら歩いてバスに轢かれたりしちゃいやだよ」
「だいじょうぶよ」
朝子は笑って答えるが、その笑顔は何か帰って来るまで素子の眼の底にのこるようなものをもっているのであった。
誰にも邪魔されずにこの大きい都会の二つの並木路や河岸や林の間を歩きながら、朝子はこの三年のうちに成長した自分というものをそれ以前の生活に迄さかのぼって隅から隅までしらべ直しているのであった。ここに止って生活する可能が示されたそのところに立って、自分の四隅を見わたしていた。自分がここに受け入れられるよろこびは朝子を真心から震盪《しんとう》するのであり、それだからこそ、真にそれにふさわしい自分かどうか、自分が作家として自分に納得出来るような業績をもち得るかどうか、そのことについて朝子は執拗に自分をしらべるのであった。朝子は客として、何かのサンプルのようにして、この愛する都の生活に寄食するには、あまりにもここの本当の姿を知っていすぎるし、自分の仕事を愛してもいるのだった。
或る晩、朝子は灯を消してからも永いこと眠らず、考えに耽っていた。カーテンのない大きい窓からは二重ガラス越しにすぐ前の新聞社の建物の屋上が見えていて、正面のイルミネーションの余光がぼんやり夜空を赤くしているのが寝台からも見える。室内の家具はその不確な外光をうけて、黒くうずくまっている。
三年前ここへ二人が着いたばかりの夜も、カーテンのない窓から、朝子は永いことそとを眺めていた。あのときはこの新聞社の建物の巨大なガラス張りの円天井が廃墟で、その破れと骸骨のような鉄骨の間に霏々《ひひ》と雪が降りかかって消えこむ様子は昼間見ていると一層寂しい眺望であった。
今またこの部屋に臥ていて、朝子は何とも云えない思いで城壁の塔の時計が時を打つ音をきいた。この間うちから自分というものをしらべつくしたあげく、朝子は自分が本当にここで書きたいと思うようなものをかくためには、それに必要な日本での生活を知っていないことを、はっきり自分に認めたのであった。このことのうちに、ここでの生活で成長した自分が見られることは何というよろこばしさだろう。しかし、それはどこまでもここで朝子が身につけた成長の幾何《いくばく》かであって、朝子にとって実感のある日本は、三年前の生活の映像であり、それは保の短い生涯を終らせ、朝子をここへ送った潮ではあったが、朝子としては直接何もふれていない、その環外にあって、どちらかと云えば孤独に、平穏にすごされた中流的な日々であった。今、朝子のかきたいと切に思うのは、そういう生活の日々の姿ではなかった。もっと苦痛に息づきながら、その歌を歌わんとしている熱心な心の経歴をこそかきたい。人類の歴史の善意につながれながら、全く独自な相貌をもっている日本のそのユニークな歌を描きたいと思う。そのために、朝子はどうしなければならないだろうか。最も誠意ある行動として何をしなければならないのだろう。
せき上げる思いにつき動かされて、朝子は寝台から起きあがった。朝子のすべきことは、帰ることだ。そうではないだろうか。自分の悲しみの在るところへ、或は自分の挫折があるところへ、そこへ真直ぐかえって、正直にそれらを経てゆくことではないだろうか。その悲しみと挫折とをこそ、ここの生活を愛すその心が愛すのではないだろうか。もし自分に成長というものがあれば、この価値を知る、それが成長の意味ではなかろうか。朝子は謙遜な、また体の震えるような生活への熱意を感じ、よろこびと悲しみの綯《な》い合わされた涙をおとした。今帰ること、それは朝子にとっては、生活への出発とも思えるのであった。ここから出発してゆく。そのかげには愛する弟のいのちをも裏づけているここの三年よ、もし、自分をここに止めておこうとする
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