、ソヴェトの浮浪児、サーニのようなのは、国内戦によって引おこされた一時の社会的な混乱が生んだ、家を失い[#「家を失い」に傍点]保護者を失ったために、社会生活の秩序を知らない[#「知らない」に傍点]子供である。社会の秩序を知り得る場所で性格の破綻からそれをあえて破ろうとするアナーキー的本質のものではない。サーニは、ああなるのは当然だ、何故なら、土台社会人としての可能を持って生れているのだから。黒須千太郎や平尾を筆頭とするその教師らのように、社会の排泄物的存在ではないのだから。二つを、並べて問題にするのは幼稚である、と。
私は、二つのタイプがそれぞれに異ったものであるということに反対しようとはしない。同じ浮浪児・指導者にさえ歴史的な二つの段階が示されているからこそ、ここで私どもの関心の的となり得るのである。この二つの世界の一方から、サーニの経験した社会的な内容へうつる歴史の橋が、今の生活の刻々のうちに異常な困難と堅忍を通じながら架せられつつある。私どもはその架橋工事に参加する世代としての権利をもっているのである。浮浪児の社会人的教化は決して、感化院の中からの努力だけでは成就されない。それ
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