がった場合、そういう可能性は少なからず含まれていると考えられる。
 しかし、作者としては、あくまでも初め自分がその作品によっていおうとしたことをどこまで云い遂せているかというところを動かぬかなめとして、賞讚も忠言をも摂取して行かなければなるまい。

 私はこの夏、『中央公論』で森山啓氏の「プロレタリア文学の現段階」という論文を読んだとき、過去のプロレタリア文学運動に対する同氏の評価に私自身の理解と相異したものがあるのを感じたことがあったが、今日「囚われた大地」を通読して、同じ論文で森山氏がその作品を評していた言葉を再び思い起した。「農村のそれぞれの階級層を代表する多くの性格を、これほどの芸術性をもって描き分けたプロレタリア作品は日本にはこれまでほとんどなかった。須井一の『綿』、小林多喜二の『不在地主』『沼尻村』、金親清の『旱魃』などの歴史的意義をもつ農村小説でも規模が違うから比較すべきでないが、これほど芸術的な力は見せなかった。」といい「プロレタリア文学においても現在の中心問題となっている」のは「新しい人間タイプを創造するということ」である、といわれている。
 また、林房雄氏は「文学は
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