であったころからの芸術愛好家であり、ダダイズムの油絵を描き、上京後は新聞社に入って政治記者もやったという作者の生きてきた道を、おのずから思い浮かべたのであった。
 丁度これを書きはじめていた時、私のところへナウカ社ニュースが送られて来た。それに、「囚われた大地」に関する作者平田氏の文章がのっていたのであるが、私はなぜかその文章と前後して会った同氏の話の調子とから、一貫して心にのこるある種の印象をうけた。ナウカ社ニュースの文章では作者自身すでに「囚われた大地」が農民の書いた小説でないことはもちろん、農村を描いたものでもなく、農村インテリゲンチア、いわば木村のもので、性格を描くことを目ざした作品であるという意見を表明していられるのである。
 個々の作品は常にその積極的な成果と作者の力量に応じての消極面を持つと見るのが自然であり、一つ一つの作品は、欠点や未熟さにかかわらず、何らかの意味でその積極面によって生きとおすものである。ある一つの作品が初め作者によって意企せられた効果によってではない、いわばそれほどとは思わぬところで評価される場合もある。われわれが自然発生的な要素を多くもって制作にした
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