れる微妙な有機的関係にあるのである。
作者は、細かく農民の日常性をとりあげようと試みている。たとえば農民がひとの着物に対して示す敏感さ、都会の人間やいわゆる学問のあるハイカラな人間や、その習慣に対して抱く警戒、嫉妬をもった皮肉な軽蔑、男女関係についての異常に強い好奇心などを、農民の上におかれている社会関係の重圧と照応するものとして、とらえようとしている。だが、一方では、作者は、作中の主要な人物の一人である与作の村の若衆としてはごく特殊な生い立ちや経歴から来る村民との日常交渉について忽卒に過ぎているのは作品の効果を薄める結果となっている。
作者は、非常に多くの頁を木村のために割いているのであるが、木村の扱いかたについても、私は同様の感を与えられた。木村はA村での小学教師として、まだまだ村全体の生活の中へない混ぜられかたが不足であるしH市の木村一家の地方インテリゲンチアとしての推移についての描写も不足している。「囚われた大地」の最後の頁を読み終ったとき、私は覚えずこれはなんと農村インテリゲンチアの小説であろうか、と思った。そして、作者自身からいつか聞いた身の上話の断片――田舎の中学生であったころからの芸術愛好家であり、ダダイズムの油絵を描き、上京後は新聞社に入って政治記者もやったという作者の生きてきた道を、おのずから思い浮かべたのであった。
丁度これを書きはじめていた時、私のところへナウカ社ニュースが送られて来た。それに、「囚われた大地」に関する作者平田氏の文章がのっていたのであるが、私はなぜかその文章と前後して会った同氏の話の調子とから、一貫して心にのこるある種の印象をうけた。ナウカ社ニュースの文章では作者自身すでに「囚われた大地」が農民の書いた小説でないことはもちろん、農村を描いたものでもなく、農村インテリゲンチア、いわば木村のもので、性格を描くことを目ざした作品であるという意見を表明していられるのである。
個々の作品は常にその積極的な成果と作者の力量に応じての消極面を持つと見るのが自然であり、一つ一つの作品は、欠点や未熟さにかかわらず、何らかの意味でその積極面によって生きとおすものである。ある一つの作品が初め作者によって意企せられた効果によってではない、いわばそれほどとは思わぬところで評価される場合もある。われわれが自然発生的な要素を多くもって制作にした
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