。組合をもとうとしているかもしれない。その場合、その勤人は、勤め先そのものの機械性、冷血に苦しむ苦しさを、組合としての要求の中に一部吐露しうる。苦しむ市民的自分はそこで複雑となり、勤労者としてのわれわれという表現をとる。昔のプロレタリア文学は、そこでハピー・エンドであった。今日、文学の前進性、血肉性――より拡大され聰明にされた人間への理解は、そういう型でハピー・エンドになるほど現実が簡単であるとは認めない。集団の一定方向をもつ行動との関係の中で個人はふたたび見なおされ、たとえば、組合や政党などと、そこに属するそれぞれの人々の人間的・社会的具体性を見きわめ、歴史的な前進の可能の核と角度のありどころを洞察し、当然の摩擦も見解の相違も予見して、さらにその個人の社会的拡大の道ゆきを追究するのである。個性の確立の道程さえも、こんなに複雑に二重の歴史性を貫き、質の変化を予約されなければならないものとなってきているのである。
 プロレタリア文学運動のあったころ、同伴者作家という表現があった。プロレタリア文学の画然たる主流に流れ入ることはしないが、ブルジョア文学の領域にありつつ進歩性をもつ作家を、パプ
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