ア革命をなしとげながらその過程で社会主義的な民主主義にうつりゆく新民主主義であるという本質が、文学にも生きてきているのである。
 今日、日本の民主主義文学は、暗い旧い世界へたたかいを挑んだヨーロッパの十九世紀末の精神から、現実に進展している社会主義社会への展望までをその領域にふくむものである。新日本文学会の大会が、プロレタリア文学の面だけをとりあげなかった理由は、これでうなずけるであろう。日本では、ブルジョア文学さえも、西欧的な意味では結実していなかった。さもなければ、文化人、文学者が、民主主義の展望の具体的要因として、どうして今日のように、個人の確立を問題とし、苦悩し、ある意味で混乱して迷路にさえひきこまれる現象が起りうるだろう。この一つの文学における基本的な課題にしても、人間らしき歴史性は、わたしたちに、独特な日本の解きかたを求めている。一人の市民が勤め人として勤め先の機械性、非人間的仕くみに苦しみ、人間として自分の一生をしみじみと思いめぐらすとき、昨日までのわたしたちの文学は、その苦悶を限度として止らなければならなかった。けれども、今日、その勤人はおそらく組合をもっているであろう。組合をもとうとしているかもしれない。その場合、その勤人は、勤め先そのものの機械性、冷血に苦しむ苦しさを、組合としての要求の中に一部吐露しうる。苦しむ市民的自分はそこで複雑となり、勤労者としてのわれわれという表現をとる。昔のプロレタリア文学は、そこでハピー・エンドであった。今日、文学の前進性、血肉性――より拡大され聰明にされた人間への理解は、そういう型でハピー・エンドになるほど現実が簡単であるとは認めない。集団の一定方向をもつ行動との関係の中で個人はふたたび見なおされ、たとえば、組合や政党などと、そこに属するそれぞれの人々の人間的・社会的具体性を見きわめ、歴史的な前進の可能の核と角度のありどころを洞察し、当然の摩擦も見解の相違も予見して、さらにその個人の社会的拡大の道ゆきを追究するのである。個性の確立の道程さえも、こんなに複雑に二重の歴史性を貫き、質の変化を予約されなければならないものとなってきているのである。
 プロレタリア文学運動のあったころ、同伴者作家という表現があった。プロレタリア文学の画然たる主流に流れ入ることはしないが、ブルジョア文学の領域にありつつ進歩性をもつ作家を、パプ
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